甲三郎が訪れたのは、それから二日ほど経った雨もよいの下午(かご)だった。
その朝、患者の一人が下腹の痛みを訴えた。すぐに出血があり、その量が増えていく。腹の子が流れたのだ。もともと、孕んだことを嘆き、子を始末してくれと縋ってきた女だった。どういう経緯があるのか、おゑんは尋ねなかった。女がぎりぎりまで追い込まれているのは明らかだったからだ。
諭すときでも、励ますときでも、叱咤するときでもない。むろん、子を流す療治などできようはずがなかった。そんなことをすれば、母も子と共に死ぬことになる。
おゑんは、ともかく女に休息をとらせた。ここは好きなだけ眠れる場所だと、ここにいる限り誰もあなたに害を及ぼさないと、告げた。
女の身を縛り付けていた目に見えない縄を少しでも緩める。そこから始めるしかなかったのだ。布団に包(くる)まり丸く身を縮めて眠る姿は、女自身が腹の胎(なかご)のようだった。
女は眠り続け、昨夜、目覚めてお春の用意した膳の粥と汁物を口にした。そして、今朝、腹の痛みに声を上げ、苦しみ、呻いた。
子が流れた。
ここでは、よくあることだ。何度も何度も繰り返し演じられる芝居のように、よく似た出来事が繰り返される。心乱れ、追い込まれ、窶れた女。途方もない痛みと夥しい血……。
よく似ている。でもまるで違う。女は一人一人、皆違う。抱えている事情も背負い込んだ現も、全くの別物なのだ。おゑんはその一つ一つにそっと手を伸ばす。伸ばしてもどうにもできないことの方が多い。明らかに多い。でも、稀に相手が握り返してくれることがある。抱き起こせるときがある。
だから、手を伸ばし続けるしかないのだ。
「先生、あたしが望んだからお腹の子は死んだのでしょうか。生まれてきてはならないと自分で命を絶ったのでしょうか」
さっき、女は乾いた眼と口調で問うてきた。
馬鹿なことを、と思う。
女の腹に宿った命は何があっても、自らを殺したりしない。ただ、育つだけだ。宿り、育ち、生まれようとする。それだけなのだ。それだけのことが大人たちにはわからない。自然の理のままに生きようとする命を、自分の持ち物のように思い込む。
おゑんは、怒りとも落胆とも苛立ちともつかない情を呑み下す。
「おまえさんの身体と心が、耐えきれなかっただけさ」
短く答えて、女に薬を飲ませる。女は素直に飲み干し、涙を一筋、頬に伝わせた。
甲三郎が裏口から入ってきたとき、おゑんは髪を梳(す)いていた。
短い眠りから覚めて、風呂を使い、身支度をしている最中だったのだ。髷を結わないから、軽く梳(と)かして一括りすれば、髪は整う。
庭に向けて開け放した障子の向こうに現れた甲三郎は「あ」と小さく叫んで、頭を下げた。
「こりゃあ、ご無礼いたしやした。出直して参りやす」
「え? 何が無礼なんです。ちょっと、甲三郎さん」
踵を返そうとする甲三郎を慌てて引き止める。
「どうして出直したりするんです。馬鹿を言わないでくださいな。あたしたち、甲三郎さんをずっと待っていたんですよ」
「え、でも……先生、髪が……」
「ええ、髪を洗って乾かしていたところなんですよ。こうやって、ちょいと括れば終わりですから、どうぞ、遠慮なくお上がりなさいな」
「はあ、でも……先生が髪を解いたところを見たのは、初めてなもんで。その……いいのかなと……その、えっとやっぱり出直してきた方が……」
甲三郎は自分の足元に目を落とし、ぼそぼそとしゃべった。
「甲三郎さん、あたしは裸でいるわけじゃありませんよ。髪を整えてるだけじゃないですか。なんで、そんなに逃げようとするんです。ああ、お春さん、いいところに来た。その男を捕まえて、部屋に引きずり込んでくださいな」
廊下でおゑんと甲三郎のやりとりを聞いていたらしく、お春は「心得ました」と笑んだ。
「いや、いいです。お構いなく。自分で上がらせてもらいやすから」
「ふふ、じゃあ洗い水を持って来ましょうかね。でも、甲三郎さん」
お春が廊下に腰かけた甲三郎に耳打ちした。
「おゑんさんの色香に中(あ)てられて狼狽えるなんて、さすが、玄人(くろうと)ですねえ」
くすくす笑いながら、お春が遠ざかる。甲三郎は、唇を結び黙り込んだ。拗ねた子どもの表情だった。世間の渡り方を百も二百も承知のくせに、童の顔つきも嘘でなくできる。
本当におもしろい男だ。
「甲三郎さん」
「へい」
「何かわかりましたか」
鏡の前を離れ、甲三郎の横に座る。まだ、乾き切っていない髪がいつもより僅かに重い。
「へえ、一つ、二つ、お報せすることがありやす」
「何です」
我知らず心が急いていた。思案が行き詰まり、進む手立てが見えない。甲三郎がこれから語ってくれることが、道を開いてくれるだろうか。
「先生」
甲三郎が顔をおゑんに向けた。人の世の裏の裏まで知り尽くした男の眼差しだった。
「この一件、医者が関わってるかもしれやせんぜ」
告げられた一言にはどんな情も含まれていなかった。
おゑんは男の眼差しを受け止め、唇を結んだ。












