
夢の外側 13
7 救いたい彼女
ベランダに出る窓を開けてみると、朝の空気は冷たくはあったが、日差しの明るさでいちばん寒い時期はもう終わったのだとわかった。
駒子(こまこ)は音楽教室の近くで買ってきた食パンを焼き、コーヒーをいれた。今日の勤務は午後からなので、洗濯をしてから出ようと思っていた。
パンを食べながらスマホでメールなどを確認する。本部の人事課からの連絡がいくつかあった。今の勤務先の所長にならないかという話を、少し前にされていた。一昨年、当時の所長が退職してからは近隣の教室の所長が兼務していて、駒子が実質的には所長としての業務も担当しているのだが、責任者は地区センター長である。肩書きが所長になると責任や業務の範囲がどう変わるのか、詳細をやりとりしている。この音楽教室の運営会社に勤めてもう十年になるし、辞めたいほどの不満も他に働きたい具体的な仕事もないのだが、所長になると今後もずっとこの会社で働くことになるのだろうと考えて少し躊躇してしまう。
大学を卒業してしばらくは一、二年で職場を変わる不安定な生活をしていたから、その時期の自分からしてみれば、すごく条件がいいわけではないがそれなりに安定して生活をしていける仕事を続けるかどうか迷うなど贅沢な悩みに思えるだろうな、と思ったりもする。
食べ終わって片付けを始めながら、テレビをつけると、昨夜寝る前に途中まで観ていた九十年代の映画が再生された。職場をクビになった中年男とバイト先で盗みの疑いをかけられて逃げてきた男子学生と夫を亡くして海辺の居酒屋で働く若い女が偶然出会い、男子学生の母親を探して南へ向かう旅に同行し、途中でヤクザの現金強奪事件に巻き込まれるというストーリーだった。夫を亡くした女が、その悲しみを影のようにまといつつも人の過去を見ることができるという不思議なところがあるキャラクターで、今度また千景(ちかげ)と衣里(えり)といっしょに映画鑑賞会をする予定なのでそのときに報告しよう、と思った。中年男の運転するトラックの荷台で、男子学生と女が寝転がって空を見ている。セクシーなグラビアから人気が出たという女優が演じる女は、眉毛を太くしたメイクで、水玉のワンピースが寒そうだった。
洗濯機が回る音を聞きながら、一人でいるのは平和だな、と駒子はしみじみした。
千景も言っていたが、同じ家の中にいる誰かの状態を常に気にしながら生活しなければならないのは、ほんとうに心が安まらない。自分ではない誰かと共同生活するときに、相手のことを気にかけたり食事や家事など調整したり譲り合ったりするのは必要なことだが、そうではなく、いつどんなことで極端に精神状態が変わるかわからない人に対して身構えていなければいけないのは気持ちも体力も消耗する。
先日、花屋をしていた家屋で少し荷物の整理をして以来、駒子は昔のことをいろいろと思い出してしまっていた。母が一階の店舗から階段を上がってくる音が聞こえるたびに怒られるのではないかと思って身構えていたこと、妙に機嫌のいい母と楽しげに話す父、不機嫌な兄、テレビに向かって独り言のような感想を言う祖母と食卓を囲んで身の置き所がなく、ごはんを食べる時間が苦手だったこと。
プラスチックケースのいくつかには、駒子が学校で使っていた教科書やノートが詰められていた。花屋の二階で生活していた中学生までのものだけでなく、一戸建てに引っ越した後の高校時代のものもあった。就職先が廃業してしばらく実家で暮らしていた時期の洋服もあった。
五年前、母の真莉(まり)が知人に誘われて長野への移住を決めたのも、それに伴って家を売ると決めたのも駒子にとっては急なことだった。
そのときも荷物を取りに行きはしたが、当時はつき合っていた人と一応はいっしょに住んでいたから空間的にも余裕がなかったし、洋服や本などを少し持って帰っただけだった。それ以外は、箱に詰められたものをほとんど中身を検分することもできずに他の荷物や家具と共に元花屋に運び込んで、そのままになっていた。
開けてみたいくつかの箱の中には、父や母の持ち物も多くあり、自分が整理していいものかわからなかった。電話の向こうの母は、必要な物はこっちに持って来たからそこにあるものは駒子が処分してくれていい、と言っていたが、箱の中をちょっと探ってみただけでもアルバムやら昔の通帳やらが混ざっていて、捨てていいものには思えなかった。アルバムは元あったのの半分ほどは母が移住先に持って行ったようだが、ここに残した十冊ほどがいらないというのも、駒子には不可解だったし、自分で捨てる気にはならなかった。
長らく人が生活していなかった上に暖房のない建物にしばらくいると身体は冷えるし埃でくしゃみは止まらなくなるしで、とりあえず持参したキャリーバッグにノートや教科書と洋服を詰めて帰ってきた。
持ち帰った小中学校で使っていたノートをぱらぱらめくっていると、中学一年のときの数学のノートの端に「金を稼げるようになりたい」と書いてあるのを見つけた。今とは少し違うが、間違いなく自分の書いた字だった。
金を稼いでから一人前のことを言え、とこのころ母からたびたび言われていた。一人前のこと、というのは、一部屋とは言わないが自分のスペースを区切ってほしいとか将来美術系の学校に行きたいとか夏に近所の友達の家族といっしょに旅行に行きたいとか冬の朝に店を手伝いたくないだとか、今思えば、自分が何かをしたいとかしたくないとかそういう類のことだった。母に一方的に怒鳴られてばかりだったわけではなく、駒子も言い返したり大きな声を上げたりすることは多かった。だから、母にも父にも祖母にも、わがままな子、いつも怒ってばかりいる子、と言われていて駒子も自身をそう認識していた。
自分の気持ちや希望を言っても大げんかになるだけだからとにかくなにも言わずに、家族に知られないでできることはやってから事後報告にするようになったのは、高校受験の時期だった。受験する高校も相談せずに決めてしまうと、母も父も駒子の進学先にそれほど興味がなかったらしく、成績から言えばこのあたりでは中の上あたりの高校なのもあって、あ、そう、という反応だった。受験料や書類の記入をおそるおそる頼んだときも、特になにも言われなかった。大学はさらに大きな金額が必要になるので言うタイミングを見計らったが、そのころは母のフラワーアレンジメントの教室が成功して家計に余裕もあったせいか、意外にすんなり話がついた。父は「これからは女の子だって勉強して仕事をする世の中だから」と言い、それを聞いた母は「勉強もいいかもしれないけど、頭でっかちになって人から嫌われないようにね」と言った。同級生たちが「教育熱心」な親の愚痴を言うのを羨ましく思うこともあった。
「金を稼げるようになりたい」。二十七年前に自分が書いた文字を、駒子はなぞるようにしばらく見た。
金を稼げるように、というほどは稼げるようにならなかったな、と思う。それでも、ここまで長い時間がかかったし、余裕がすごくあるという生活ではないけれど、とりあえず今のところ一人で生活していける仕事ができているのは、まあいいと思うことにしよう、と駒子は考えて、ベランダに出て洗濯物を干した。
花屋の二階に置かれた荷物の中には兄の持ち物も少しあった。テレビゲームやスニーカーくらいで、いらないと言われるだろうけれど、一応は兄にも連絡したほうがいいのだろう。気が重いが、あの花屋の建物がなくなることも伝えておいたほうがいい気はした。
その週末に、兄に連絡するより先に、伯母、父の姉から電話がかかってきた。
「真莉さんから、和彦(かずひこ)の荷物も処分するから確認するならしてくれって言われたけど、ほんとにいつも唐突すぎるわよ。相変わらず、何考えてるんだか、わからない人よねえ」
久々に聞く伯母の声は、呆れているのか腹を立てているのか判断がつかなかった。
「駒子ちゃんも苦労してるでしょ」
「まあ、それほどでも」
「和彦のものも処分するって、あっさりしたものねえ。お葬式ではあんなに大泣きしてたのに、死んだ人のことは忘れちゃうのかしらね。そもそも、和彦との家はさっさと売っちゃって、あの花屋だけ残してたんだから、結局真莉さんがだいじだったのは花屋の仕事ってことなのかねえ」
「どうでしょう」
駒子の頭の中に、父の葬儀の光景が、くっきりと浮かんだ。
菊の花で埋まった父の棺に取りすがり、葬儀のあいだ泣き通しだった母はさらにぐしゃぐしゃに涙を流しながら大きな声を上げていた。行かないで、なんで置いていくの、私のことをわかってくれる人がいなくなっちゃうじゃない、私のことをわかってくれるのはカズくんだけなのに、私を救ってくれるって約束したのに。棺に蓋をしようとしていた葬儀社の人が困惑する横で、母がこんなに泣き崩れているのに娘が涙一つ流さないのは冷たく見えるだろうか、と思っていた。涙を拭うふりをして手を顔に当ててみたが、乾いた感触しかしなかった。母が声を上げれば上げるほど、駒子の心は冷えていった。父の頭の近くに立つ兄は、意外にも涙をこらえてすすり泣いており、自分の無表情がますます気になった。
私のことをわかってくれるのはカズくんだけなのに、これから私のことをわかってくれる人は誰もいないのよ。繰り返す母の隣で、一人いるならじゅうぶんじゃないか、と駒子は思った。
私には誰もいない。わかってくれる人がこの世に一人でもいるなんてじゅうぶんすぎるほどじゃないか。
七年前の葬儀で泣き崩れた母の肩を抱えた伯母は、今は電話の向こうで話し続けている。
「あら、真莉さんのこと悪く言ってんじゃないのよ。親の借金を返すためとはいえあの時代に女が働くなんて並大抵のことじゃなかったと思うからねえ。その苦労が染みこんだ店を手放せなかったっていうのは、理解してるのよ、私だって。ただ、和彦もその苦労がわかっててどうしてもこの人だって結婚して、そのおかげで真莉さんは仕事ができたわけでしょう?」
「あの、父の荷物、見に来られますか?」
「そうねえ、急に言われても、うちも今、沼津の家の片付け中で大変でね。ほら、最近よく聞くでしょ、実家じまいって」
父の実家は静岡県の沼津市にあり、伯父伯母たちもその周辺に住んでいて、気軽に訪ねられる距離でないのは理解していた。祖父母はともに施設に入居し、伯母たちが古い家の片付けをしているというのは母からも聞いていた。子供が先に、しかもかわいがってた末っ子が先立つなんて、こんな親不孝はない、と葬儀で言っていたのは誰だったっけ。不意に記憶がいくつもよみがえってきて、駒子はときどき伯母の話を聞き漏らした。最終的には、処分の前に一度荷物を見に来るから黙って捨てないように、と伯母が言って、電話は終わった。
次の日の夜、仕事から帰ってきた駒子のところに千景が阿闍梨餅(あじゃりもち)を持ってきた。出張で大阪に行ったついでに京都の実家に寄ってきたとのことだった。一年ぶりに会った母親は腰を痛めて仕事を休んでいるらしかったが腰以外は元気だと、千景は話した。
ほうじ茶を入れて阿闍梨餅を食べつつ、駒子は元花屋の建物にある荷物を整理しなければならないことや伯母から連絡があったことなどを話した。
「ちょっと聞いてるだけでめんどくさそうやなあ。荷物見てもらったら見てもらったで、なんかまた揉めるような物が出てきたりして」
「えー、やめてよ。めちゃめちゃありそうって怖れてて、箱開けるたびにほんとにびくびくしてるから」
「笑われへんびっくり箱や」
と千景が笑って、駒子は伯母から電話があってからの鬱々とした気持ちが少し晴れた気がした。
「お父さんは、急に倒れて亡くならはったんやんね? じゃあ、ご本人はなんの準備もないまま……」
「うん。それまでに大きな病気もしてなかったから、ほんとに突然で。普段から身の回りの物とかきっちり整理してる人だったから、すごく困るってことはなかったんだけど、それでもしばらくは慌ただしかったね」
「亡くなって相続の手続きしたあとで借金が出てきたとか、それこそ知らないきょうだいがいたとかたまに聞くけど、そういうのはなさそうやね」
「私も身近な人で聞いたことあるけど、そういうのは無縁そうな人だったし、実際なにもなかった。父の叔父、私からだと祖父の弟にあたる人の会社でずっと働いてたから出世もしないけど安定はしてて、テレビで将棋や野球の中継観るぐらいで、お金を使うような趣味もなかったし。なんていうか、趣味は自分の奥さん、って感じだったかも」
「そういう人もおるんやなあ。叔父さんの会社で働くのって、しがらみありそうな気がするけど」
千景は二つ目の阿闍梨餅に手を伸ばした。京都のお菓子ではこれがいちばん好きなのだと、今までにも駒子に買ってきてくれたことが何回かあった。千景にもらうまでは阿闍梨餅を食べたことがなかった駒子も、今は好きな和菓子と聞かれると阿闍梨餅が真っ先に浮かぶようになった。
「父の叔父さんが夫婦でやってる設備工事の会社なんだけどさ、会社を始めて間もない時期に経理を担当してた人に横領されたことがあったらしくて。それで、信用できる身内を雇いたいってうちの父が中学生くらいからずっと言ってたんだって。その叔父さん夫婦には子供がいなくて、私の祖父には子供が五人いたから、一人くれって感じかな」
駒子はほうじ茶を淹れ直そうと、台所に立ってやかんをコンロにかけた。隣の部屋からかすかにテンポの速い音楽が聞こえてくる気がしたが、暗い外は静かだった。
「昔はそういうので養子に行く人も多かったけど、それはなかったんや」
「息子みたいにかわいがってた、とは親戚の人たちは言ってたけど、私から見ると親子的な雰囲気ではなかったかな。父は、叔父さんの会社で働き続けてる自分のことを自嘲気味に話してたりしてたし。うちの父は五人きょうだいの末っ子で三男だったから、長男次男は大学に行ったけど三人目まで行かせるお金はないし叔父さんの会社で堅実な仕事に就けるんだったらそれがいいだろうって祖父が決めちゃって高校卒業してすぐからそこで経理や事務を担当して。だから、父が急に亡くなっていちばん困ったのはそこの社長夫妻じゃないかな」
「なるほどなあ。そういう関係も、一昔前まではまあよくある話って感じやな」
千景は、駒子が注ぎ足したほうじ茶をゆっくりと飲んで、息をついた。
「その会社が花屋があった沿線のずっと西のほうにあって、取引先に行く途中で花屋の前を通りかかって母に一目惚れした、というのは何回も聞かされた」
「お父さんにとっても『花屋の天使』やったわけや。勝手な想像やけど、お父さんにしてみたら、親が勝手に決めたそんなに面白みもない仕事を淡々とこなす毎日に突如現れたのがお母さんやったと」
「そんな感じかな」
「お父さんとお母さんの関係はよかったわけやろ? 近所の人にも仲がよくて、お父さんも家事をしてくれる幸せな家庭って言われるぐらいやし」
「仲悪いよりは仲いいほうが良かったとは思うけどね。ちょっと仲よすぎなくらいで」
「そうなんや」
駒子も、少し考えてから二つ目の阿闍梨餅を食べることにした。
「兄は和彦と真莉から一文字ずつ取って和真(かずま)なんだけど、私の名前は最初は小真莉にしようとしてて。小さい真莉で小真莉」
「えっ、それはなんか気持ちわる……、あっ、ごめん、なんていうか、小真莉にならへんくてよかったね」
「うん。それはさすがに母が止めて、『こま』部分が残って『駒子』になってよかったんだけど。『小真莉』ってつけたいくらい、父には母が絶対的な存在だったんだろうね。とにかく母の言うことはなんでも聞く、母の希望が最優先って感じで」
「いやあ……。そこまでだとちょっと大変そうな……」
千景は眉根を寄せ、困惑した表情になっていた。
「そっか。……そうだよね」
母と父や、親戚たちの間では「小真莉」の話は軽い笑い話としてときどき繰り返されてきた。そのたびに駒子は、落ち着かない、身体の中を虫が這うような感覚になったが、その感覚はいつも家族や親戚たちの笑いにあっさりと流されてしまい、駒子の表面はそれに合わせて曖昧に笑みを浮かべているだけだった。
今、千景の素直な反応を目の当たりにして、ようやく、そうか、と思った。「気持ち悪い」と思ってもよかったのか、と。
(つづく)

