大戦末期、戦艦大和とともに沖縄水上特攻を命じられた駆逐艦響は周防灘で触雷、落後する。乗組員の浦賀少尉は、日本の内海すら米軍の機雷で埋め尽くされた現実に愕然とする。
 戦後、海上保安庁で日本周辺の掃海任務にあたっていた浦賀だが、ある日、緊急電により下関へ向かう。そこには多数の掃海艇が集結していた……。当時の日本の難しい立場を背景に約三十年も秘された事実をもとに、日本人にもっと知ってもらいたいと願う直木賞作家の著者が、全力で挑む歴史大作、ここに開幕!


     五

 梁泳葉(リャン・ヨンヨプ)は海の上で育った。
 父が艪(ろ)を漕ぐ小舟で、波に揺られてゆるゆると進む。母は胴だけを覆う茶色い水着(ムルオッ)に着替え、あとは船べりにもたれて海を眺めている。ころあいになると、母は両眼の水中眼鏡を着けて波間に滑りこむ。そのときに立つ白い泡を、父は消えてもずっと見つめていた。
 両親が仕事をしているあいだ、泳葉は邪魔にならないよう、舟の隅っこにちんまり座っている。ときおり首を巡らせると、東洋一の工業都市だという大阪の街が、晴れたり曇ったりする空ごと煙に煤(すす)けていた。
 母は一分か二分おきに顔を出し、ワカメやカジメなどの海藻、もしくは鉄屑(てつくず)を舟に放り投げ、また波に滑りこむ。ワカメは安値ながら売り物にはなる。カジメは消毒液や火薬の原料になり、軍需物資としてそこそこの値がつく。鉄屑は重たくてなかなか持ち帰れないが、工業が盛んな大阪や神戸の海ならではの「特産品」だ。
 昼時になって、やっと母は舟に上がる。髪を絞って水を切り、なかなか乳離れしない泳葉に乳を呑ませ、それから父と大きな握り飯を食べた。ひと通りがすむと、また海に戻った。
 母は潜嫂(チャムス)、日本語でいう海女(あま)だった。朝鮮、済州島の出身で、島の伝統である潜嫂の仕事を覚えると日本各地の海で出稼ぎをするようになった。
 父も、母とは別の村ながら済州島に生まれ育った。島から定期船が出ているために同郷人が多い大阪に居つき、景気や雇い主の都合で職を転々としているうちに母と出会った。
 となり近所からつつましくも賑やかに祝福され、父母は結婚した。その直後、父は勤め先のプレス機に利き手の指を二本、持っていかれてしまった。母は仕事先を大阪湾に絞り、父が借りた小舟で海に出るようになった。
 潜嫂の稼ぎは悪くない。けれど、貧しさを脱せるほどではない。そのうえ体力を消耗する。母が泳葉を授かったのは結婚から三年後で、続く子は産まれなかった。
「おまえの名前は、泳ぐ葉っぱと書くんや」
 遅めの乳離れを終え、そろそろ学校へ行くという齢(とし)になったころ、泳葉は父からそう聞かされた。愛(いと)しいはずの息子ではなく、父が漕ぐ小舟のほうにぴったりの名前だと、頼りなさを感じた。
 ただし幼いなりに、泳葉は父のやさしさを知っていた。「スラスラ話せるくらいになっとったら、莫迦(ばか)にされんですむぞ」と、泳葉の前ではことさら日本語を使う。頼りない名前にも何か意味があるのだろう、と思った。
 このとき泳葉が思い起こしたのは、無言で波間に沈む母を送るときの父の目だった。父は子供が見てもわかるくらい母を好いていた。木の葉ほども頼りない小舟で母を待つ、という役目は、父にとって恥でなく誇りらしかった。うまく言葉にはできないが、父と母とひとり息子が繋がっているように、泳葉には感じられた。
 新聞やラジオが「支那事変」と呼ぶ戦争が始まった翌年、泳葉は小学校に入った。日本軍は早々に中華民国の首都南京を占領するなどの大戦果を立て続けに上げていて、大阪のみならず日本中が沸き立っていた。
 入学してすぐの下校中、泳葉は日本人の同級生三人に囲まれ、「朝鮮人」と言われた。本当のことだから気にしなかったが、言ってくる口調が気に障った。なるほど、自分はいま莫迦にされているのか、と泳葉は納得し、言ってきた奴を突き飛ばした。すると、別の奴が泳葉の肩にかかった布鞄を蹴り上げた。
 この前の日から、泳葉の母は潜水病で寝込んでいた。父は母の世話をする合間に、指の欠けた自分の右手を憎らしげに睨みつけてから、登校する息子を「きょうも気張りや」と穏やかな声で送り出してくれた。蹴られた鞄、中の鉛筆や帳面は、そんな父母が買ってくれたものだ。
 ほんまや、気張らなあかん。泳葉はそう思った。鞄を蹴ってきた奴の頬桁を思い切り殴り、よろめいたところで足を払った。相手はころりところがり、そのまま泣き出した。
「通るで。どいてんか」
 泳葉が言うと、怯えた顔をしたまま突っ立っていた二人は後ずさった。大股に歩み、狭いうえに造りも粗い家に帰る。やはり寝込んでいた母の顔を覗き込むと、潮焼けした頬は朝より赤みが差していた。泳葉は安心し、父が炊事をしている台所へ行った。
「うち、済州島には帰らへんの」
 器に入れた菜っ葉を塩で揉みながら、泳葉は父に訊いた。どうやら日本にいればいるだけ、出身で莫迦にされる。そのたびに殴り返すのは、さすがに面倒だった。
 あと、地に足がつかない感覚がある。泳葉は生まれも育ちも大阪だ。使う言葉も大阪のもので、朝鮮語は片言くらいしか分からない。朝鮮なる土地、父母を育んだ済州島、いずれも名前でしか知らない。
 同胞に分けてもらった辛くて酸っぱい漬物を切っていた父は「せやな」と顔を上げた。
「日本のほうが稼ぎがええ。おまえが独り立ちする年頃になったら、考えてもええな」
 おまえのために日本にいる、と言われれば、泳葉も「分かった」と応じるしかなかった。
 莫迦にされたら必ず拳で報い、莫迦にされた同胞の喧嘩には必ず助太刀するほか、泳葉はごくありふれた小学生として時を過ごした。父母は毎日海に出て、海藻や鉄屑を拾った。休みは数か月おきに一日か二日、母が寝込んだ時だけだった。
 そのうちに大東亜戦争が始まる。貯金は父母が働いた分だけ増えていたが、急速に吊り上がる物価に対しては、父の言葉を借りれば「ええとこトントン」だった。
 泳葉の一家が済州島へ帰ったのはそれから三年ちょっと後。時期は思いのほか早く、きっかけは想像の外からやって来た。
 その年の三月一三日深夜、大阪にB―29の大編隊が飛来した。都心部は火炎に舐め尽くされ、後から聞いた話によれば、山向こうの奈良からも赤い光が見えたという。
 泳葉たちが住まう地域から被災地の端までは、歩いて三〇分ほど。町並みは途切れなく続いているから、泳葉たちが助かったのは風向きの都合による奇跡でしかない。残った市街地を狙う次の空襲は確実にあり、だがもう奇跡はなさそうだった。
「帰るで、済州島」
 近々に燃えるはずの狭い家で父に言われた時、泳葉はちょっと言葉に詰まった。
「いやや」
 口を衝いたのは、以前の思いと逆さまの答えだった。
 住むことになったいきさつはどうあれ、泳葉は大阪で生まれ育った。我が物顔で空から爆弾を落としていくアメリカ軍には、無性に腹が立っていた。
「俺、大きくなったら志願する。戦闘機乗りになる」
 泳葉は一四歳になっていた。小学校改め国民学校の高等科は今年で卒業となるから、陸軍の少年飛行兵、海軍の予科練とも、志願の資格を満たす。学校で何度も教えられる「陛下の赤子(せきし)」などの言葉にはピンとこないが、日の丸をつけた新鋭戦闘機に乗ってB―29の横っ面を一発くらい張り飛ばしてやりたかった。済州島は胸を張って帰る先であり、逃げる場所ではなかった。
 そのとき横っ面を張り飛ばされたのは、B―29ではなく泳葉のほうだった。狼狽して目を泳がせる父に代わって、母が仁王立ちしていた。
「ここにいても、死ぬだけや」
 父ほど日本語の習得に熱心でなかった母は、切り削ったような短い言葉とただならぬ気迫を放った。泳葉は従うしかなかった。
 朝鮮に帰っても志願はできるで、と後でこっそり教えてくれたのは父だった。
 だが、泳葉の気は晴れなかった。初の帰郷は、どこか逃亡めいた色どりを帯びていた。
                〈つづく〉

【関連記事】
川越宗一 小説連載「白く爆ぜる海」 第20回
川越宗一 小説連載「白く爆ぜる海」 第19回
川越宗一 小説連載「白く爆ぜる海」 第18回