大戦末期、戦艦大和とともに沖縄水上特攻を命じられた駆逐艦響は周防灘で触雷、落後する。乗組員の浦賀少尉は、日本の内海すら米軍の機雷で埋め尽くされた現実に愕然とする。
戦後、海上保安庁で日本周辺の掃海任務にあたっていた浦賀だが、ある日、緊急電により下関へ向かう。そこには多数の掃海艇が集結していた……。当時の日本の難しい立場を背景に約三十年も秘された事実をもとに、日本人にもっと知ってもらいたいと願う直木賞作家の著者が、全力で挑む歴史大作、ここに開幕!


   四

 二〇〇〇ごろ、駆特五号のブリッジは呉の明かりを視認した。食料不足の陸地へ急ぐ必要もなく、浦賀は機関停止と一時間の食事休憩を命じた。
 混ぜ物ひとつない銀シャリ、刺身と天ぷら、アラ汁。乗組員は出されただけの料理をむさぼった。駆特五号が呉の岸壁に接舷したころには、二二〇〇を回っていた。
 浮田は数人を連れて破損した掃海具を運び出し、呉掃海支部の補給所へ行く。浦賀はひとりで下船し、航海日誌と掃海域が記された海図を事務所に提出した。
「名前は忘れてしまいましたが、東京の掃海課から出張で来られているお方が、浦賀艇長を探していましたよ。今日はもう宿に引っこまれたようですが」
 事務所の職員に教えられた浦賀はつい顔を曇らせ、「そうでしたか」とだけ言った。それから補給所へ行って浮田たちと合流し、機雷処分の祝儀として酒の一升瓶を二本受け取り、ともども帰船する。狭い艇長室でいくつかの事務仕事を片付け、寝台に身を横たえたころには翌〇〇〇〇を回っていた。
 次の朝、駆特五号は船首の穴を修理するため間近のドックに入る。乗組員は自前でできる整備や艇内の清掃に取りかかり、浦賀は港の整備員と打ち合わせる。修理のついでに年次の点検も前倒しで行うこととなり、ドック入りはちょうど一〇日と見積もられた。
 日暮れが近くなったころ、乗組員は荷物をまとめて掃海部の敷地内にある宿舎の大部屋に移る。疲れた者は寝っ転がり、あるいは浦賀がもらってきた一升瓶を開けた。自宅や実家が近い者は休暇の届けを書き、帰る先がない独身者は物不足なりに娯楽と賑やかさがあふれる呉の街に散っていった。
 浦賀は宿舎に与えられた個室に入った。書類鞄をどさりと机に置き、椅子に身を預ける。食材補給の改善、また揚錨機の動力化を求める上申書を書くつもりだけして、しばらくぼんやりしていると、訪れる者などないはずの扉がノックされた。
 浦賀はのろのろと立ち上がって扉を開け、それから遠慮なく顔をしかめた。
「久しぶりだな、浦賀。会いたかった」
 東京の掃海課員、松原保はにやにやと笑っていた。
「私は、会わずに済むと思っていたのですが」
「運の巡りからは誰も逃れられん。観念したまえ」
 浦賀は大げさにため息をついたが、松原にひるむ気配はなかった。
「呉に行くと電報を打っただろう。なぜ返事をくれなかった」
「届いたのが出航の前日で、忙しかったのです。松原さんが帰京される日も航海中の予定でしたから、別に返事をする必要もないと思いまして」
「冷たいな。だが掃海具が破損してしまったから、俺が呉にいる間に掃海を切り上げるしかなかったということだな」
「まったく残念です」
「同情するよ。まあいい、飲みに行こう。機雷処分の褒美に俺がおごってやる」
「断ってよろしいですか」
「だめだ」
 しかたなく浦賀が紺の外套を羽織ると、松原は楽しげに目を細めた。
「その外套、海軍時代のものか。意外と物持ちが良いのだな」
「ボタンは付け替えてありますがね。そうおっしゃる松原さんも同じ外套ですが、海軍マークのボタンはそのままですね」
「変わり者の特権でな、誰も咎めてこん。行こうか。呉には行きつけの店があるのだ」
 松原はさっそうと身を翻し、浦賀はしぶしぶついていく。

 呉は、もともと小さな漁村だった。
 明治に入って海軍が軍港と工廠を建設すると、あっという間に一大工業都市へと変貌した。敗戦は呉に多数の失業者を生み、また膨大な復員、引揚者を引き入れ、海軍が貯蔵していた物資を統制の外に解き放った。市街のそこここに現れた呉の闇市は隆盛し、ほとんど機能していない配給に代わって市民の生活を支えていると地方紙に擁護されるほどの存在となった。
 ただし徐々に、闇市の露天商も自ら秩序を求めるようになった。警察や代議士と交渉しながら組合を作ったり、また共同で「マーケット」と通称される商業施設を立てて入居したり、法外な値付けをする悪質な業者を締めだしたりしている。
 松原が足を踏み入れたのは、まだ闇市然とした気配を濃厚に残す雑多な地帯だった。すでに陽は暮れている。誰か有志が設置し、どこかから盗んだ電気を使っているのだろう街灯が、点々とほのかな光を放ち、思い出したようにふと消える。すれ違う人影はみな白い息を吐き、すえた体臭を発していた。
「ここだ」
 立ち並ぶバラックの一角で、松原は立ち止まった。立てかけられた板切れは隅に焦げが残り、「はるらさん」と大書されている。松原の行きつけらしい店は、明日なくなってもおかしくないほど頼りなく、今日存続できているのも奇跡と思えるような佇(たたず)まいだった。
「やあ、また来たよ。世話になる」
 松原はトタンの扉を押し開け、寒風が吹きこむ店内に一歩入る。中は五人ほどが並べそうなカウンターが、壁と人ひとり分ほどの間を空けて据えられている。
「来ないでって言ったのに」
 カウンターの向こうから、赤いとっくりセーターを着た若い女性が棘(とげ)のある声を上げた。松原という男はどこに行っても避けられるのだな、と浦賀はむしろ感心してしまう。
「そう言いながら、きみは俺を追い出さないじゃないか」
「うちが流行(はや)れば、真っ先に追い出すよ。わたしも食っていかなきゃ、ならないから」
 女性は仏頂面を崩さないまま、白濁した液体を満たした湯飲みを二つ、カウンターに置いた。店内を見渡しても品書きめいたものはない。何かの酒らしき一種類しか出せない店が流行るとは、浦賀には思えなかった。
「この人は、ウさんとおっしゃる。朝鮮は済州島のお生まれだ」
「ウ・ユナです。字は宇宙の宇、潤う、雅びと書きます。どうぞよろしく」
「ウさんはやたらめったら、名乗るのだ。面白いだろう」
「わたしは別に面白くないです。日本人みたいな名前を使わなくてよくなったのが、うれしいだけ」
「こういう気骨あるお人とは、話しているだけでこっちも気分が良くなるものだ」
「松原さん」
 さすがに浦賀はたしなめた。
「いくら客だからって、ちょっと物言いが失礼ではないですか」
「ほお、現場を支えているだけあって、浦賀艇長は人間ができているな。机でふんぞり返るしか能のない東京の人間としては、頼もしい限りだ」
「そんな感じだから、松原さんは宇さんや私、いやもういいや、俺に好かれないのです」
「わたしが松原さんを嫌うのは、振る舞いじゃないのです」
宇は宇で、物言いに遠慮がない。
「わたしは日本の軍人さんが嫌いなんです。父が海軍の工場に徴用されて、それで母とわたしも呉に来るはめになったから」
「俺も松原さんと同じだよ。階級は全く違うけど、もと軍人だ」
告白するような気分で浦賀が言うと、宇は「なら、うちが流行るまでは来ていいですよ」と辛辣(しんらつ)に応じてきた。
「ところで済州島だったか、戦争が終わったあと、宇さんは故郷に帰らなかったのか」
 浦賀が問うと、宇はまず湯飲みを指さした。
「先に飲んで。でないとわたしは代金を取れない」
 浦賀は湯飲みを取り、ひとくち含んだ。どぶろくに似た味わいで、ただしよりアルコールが少ないらしく、飲みやすい。ほのかに甘酸っぱく、飲み下すと炭酸の感触が淡く残る。
「マッコリといいます。米から作る朝鮮のお酒で、自家製です」
「いまは米がなかなか手に入らんだろう。だから宇さんは、マッコリが作れずに店を開けない日も多いのだ」
 松原が訳知り顔で説明する。開いているかどうかも分からない店なら、ますます流行らない、と思いつつ浦賀は別のことを言う。
「うまいね。たぶん飲み切ってしまうから、あとでお代わりをもらおう。ところでさっきの質問だが、どうしてお国に帰らなかったんだい」
「戦争が終わったとき、母が病気だったのです」
 宇は無愛想な表情のまま、答えた。
「医者に診せるお金もないし、診せたところで薬ももらえない。帰国の船はぎゅうぎゅうだろうから母の養生にもよくなさそうだった。で、父とわたしで二人して、空襲で出た瓦礫の片づけや道路工事に行って、日銭を稼いでしのぎました。やっと去年に母もよくなったんですけど、こんどは朝鮮のほうが大変な情勢になってしまって」
 戦争が終わった直後、日本の朝鮮総督府から行政を委任された現地の運動家団体が、「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言した。ただし朝鮮半島は当面、北緯三八度線を境に北をソ連、南をアメリカが管轄することとなった。
 北側では土地の没収や産業国有化などの改革で資本家が零落した。南側では統治が円滑に進まず、コレラの流行や市民のデモ、銃撃を伴う苛烈な鎮圧が続いている。
 南北それぞれの理想や現実、統一しての独立を希求する勢力の悲願が、荒っぽく入り乱れていることは、浦賀も新聞や噂で耳にしている。
「とりあえずの暮らしは立ちましたから、様子が落ち着くまでは日本にいるつもりです。わたしはきつい仕事に疲れたので、この店を開きました」
「そうだったのか」
 間抜けな返事しか、浦賀には思いつかない。人それぞれに複雑な事情があることは、知っているつもりだった。だが朝鮮半島という大きな地域の混乱も、その混乱が宇の一家にもたらした境遇も、浦賀が訳知り顔をできる範疇(はんちゅう)ではなかった。
重い沈黙が、はるらさんの店内に流れる。いきなり身の上を訪ねるなど野暮だった、と浦賀は後悔する。
「おい」
 ややあって、松原が口を開いた。
「宇さんを口説きたければ、またこの店に来ればよい。今日は単身の出張で寂しい俺を慰めてくれるか」
「愚痴を聞くくらいなら、できますよ」
 会うたびにうっとうしい松原の存在が、いまばかりはありがたかった。
「では場所を変えよう。宇さん、勘定を頼むよ」
「もう出るのですか」
 あわてる浦賀に「ああ」と応じ、松原は尻のポケットから財布を抜き出す。
「長っ尻は好かんからな。あと、貴様に何杯もおごってやれるほどの持ち合わせもない」
 浦賀が半分ほどしか飲んでなかった湯飲みを急いで干すと、宇がおごそかに一升瓶を持ち上げた。
「約束通り、お代わりしていってください」
 浦賀は苦笑しながら湯飲みを差し出し、注がれたマッコリを一息に飲む。
「貴様がうかつな約束をしたせいで、支払いが一杯ぶん増えてしまったではないか」
 薄給らしい松原は渋い顔をした。                〈つづく〉

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