太平洋戦争については、軍部の暴走によって無謀な戦争に踏み切った結果、敗戦を喫したというシナリオが、おおむね今の日本人のあいだに浸透している見方だろう。だが、当時の軍人たちが無知蒙昧な悪人集団であったというとらえかたは、あまりにも表面的である。なぜなら、開戦後のシミュレーションは、適切な人材とデータによって、きちんと事前に行われていたからである。そして、「日本必敗」という結論もはっきりと予測されていた。当然ながら、その内容を、軍部も含む当時の中枢機関は把握していたのだ。
状況の分析と予測はできていた。その内容を皆が知っていた。では、それにもかかわらず、なぜ開戦したのか。『昭和16年夏の敗戦』(猪瀬直樹・著)を読むと、当時の意思決定の場において、何が起きたかがよくわかる。それは、いかにも日本らしい、現代においても私たちがよく目にするような状況が生じた結果だったのだ。
平均年齢33歳のエリート集団「総力戦研究所」
日米開戦の8ヵ月前。永田町にある首相官邸脇の坂を下った窪地に、木造二階建てのこぢんまりとしたバラックができていた。この、まるで田舎の小学校のような佇まいの建物こそが、「総力戦研究所」というものものしい名称の施設である。
当時の戦争は、日本が経験した日清・日露戦争から、武力のみならず経済・外交など国全体の戦略が求められる「総力戦」へと質が変わってきていた。ちょうど日中戦線が拡大し、泥沼化していた時期でもある。国内でも生活必需品は切符制となり、すでに日本は否応無しに総力戦に臨みつつあった。早急に、このような状況に対応しうる人材を育成する必要があり、急遽この施設が開設されたのである。
研究生として集められたのは36名の「官民各層から抜擢された有為なる青年」。その所属は、大蔵省、商工省といった省庁のエリート官僚、陸軍省の大尉、海軍省の少佐、そして日本製鐵、日本郵船、日銀の職員、同盟通信のジャーナリストなど。6名のみではあるが民間企業からも起用されており、残りの官僚のうち軍人はわずか5名。文官優位の構成となれば、当時にしてはバランスのとれた人選だったといえる。
条件として挙げられたのは、「人格高潔、智能優秀、身体強健にして将来各方面の首脳者たるべき素質を有するもの」、そして年齢については「なるべく年令35歳位迄のもの」。つまり、第一線での実務経験がありながら、分別がつきすぎるほど歳を取ってもいないという、絶妙な年齢設定があったのである。こうして、「研究生」というには少し大人びた面々が、中国大陸を含む全国各地から、ひとつところに集められることとなった。