からからと、よく通る笑声が響いた。平左衛門が笑っているのだ。
「ははは、甲三郎、おまえより先生の方がよほど肝が据わっているようだぞ」
「川口屋さん。そんな大仰な話じゃござんせんよ。天下を語るわけじゃなし。ただ、あたし一己の身の上に過ぎないんですよ。肝など据えなくても話せます」
「いや、天下を談じるより己を語る方がずっと難しく、覚悟も要ると思いますがな。天下は正体があやふやですが、己の話は全て己が引き受けねばなりません。ええ、なかなかに難儀でしょう。己の内をさらすのは、生半可ではできない。そうだな甲三郎。だから、おまえは、らしくもなく慌てて、わしを止めた。先生を傷つけたくなかったか」
「え、あ、いや……そ、そんなこたぁありやせんが……」
俯く首代をちらりと見やり、平左衛門は息を吐き出した。
「おまえも安芸も、どうかしている」
この男にしては、弱々しい物言いだった。
「惚れてはならん相手ぐらい見定められなくて、どうする」
甲三郎が大きく目を見開く。
「は? そ、惣名主、何を言い出すんで」
「とぼけなくていい。先生に惚れたってどうしようもないと、それぐらいは早々に気付いてもよかろうに。吉原随一の花魁と首代を束ねる男。二人して、底なし沼に引きずり込まれて何とする、だ。全く……」
「川口屋さん、ちょっとお待ちくださいな。底なし沼とは誰のことです」
「先生に決まっておりましょう。足を踏み入れた者をずるずると引き込んでしまう。厄介極まりない沼ですよ、先生は」
「まあ、それはちょっと酷かござんせんか。あたしも、これまであれこれ言われてはきましたが、沼に譬えられたのは初めてですよ。清水とは言いませんが、もう少しましな譬えをしてくれませんかねえ」
「先生は人を引きずり込みます。川でも海でもない。底のない沼ですよ」
笑いながら平左衛門が告げる。笑っているけれど、冗談や戯言ではない。僅かな笑みも浮かべていない双眸が告げる。
先生、わたしはあなたを底なし沼だと思うております。本気でね。けれど、ここまでにしておいていただきますよ。これ以上、吉原の者を引きずり込むのなら、容赦はできませぬから。わかっておいでですね。
ああ、そうか。
おゑんはやっと呑み込めた。
平左衛門は、ただ好奇の心のままに、おゑんの過去を知りたがっているわけではないのだ。おゑんが吉原にとってどこまで役に立つか、どこから害となるか、見極めるための種を手に入れようとしている。
なるほどね。
おゑんは平左衛門と視線を絡ませる。唇の端を上げ、薄く笑ってみせる。
上等じゃありませんか、惣名主。
吉原の頭にそこまで気に掛けられるとは、ちょっとした自慢になりゃしませんか。まっ、勝手に容赦するのしないの決められても迷惑でしかありませんけどねえ。あたしにだって言い分も都合もありますから。
おゑんは鬢の毛を撫で上げた。
「龍堂には恩があります。けれど、それ以上に蔑む気持ちの方が強かったんですよ」
「蔑む……」
甲三郎が呟いた。
「あたしはね、他人さまとはちょいと変わった身体の作りになっておりましてね。川口屋さん、甲三郎さん、二形(ふたなり)という言葉を知っておられますかね」
男二人を窺う。平左衛門は煙管を掴んだまま、甲三郎は眉間に深く皺を寄せて、共に無言だった。どういうものか知っているらしい。
あたしはどうやら、男とも女とも言い切れぬ身体で生まれてきたらしいのです。祖父はそのことに気付いていたらしく、あたしに帳面を一冊、残しておいてくれました。大人になるにつれ、あたしの身体に何が起こるか、どう変化していくか、詳しく書き残しておいてくれたのです。ええ、ずい分と助けられましたよ。
祖父はあたしを励ますでなく、生き方を示唆するのでもなく、あたしに起こり得るだろうことだけを綴っていたのです。その淡々とした筆致が、どれほど快く、支えになったか。あの帳面のおかげで、あたしは自分の身体を厭うことなく、自分の定めに狼狽えることもなく、ここまで生きてこられました。
あたしには月のものが巡ってくることはありません。子を孕むこともありません。そんな風に身体ができていないのです。男からも女からも外れ、どちらでもない。
それが、あたしという人間なんですよ。
平左衛門がおゑんから視線を逸らした。
この男をして、意想外の話だったのだろう。僅かながら戸惑いが面に現れる。
甲三郎は?
おゑんは微動だにしない男を見据える。
目が合った。
甲三郎は逸らさない。瞬きさえしない。眼には、戸惑いも狼狽も躊躇いも浮かんでいなかった。
おゑんはもう一度、鬢の毛を撫でた。
さて、そこで龍堂です。
龍堂は医者の眼であたしを見ていて、気が付きました。
尋常から外れた者だと。
あ、いいえ、気が付いたというより疑いを抱いたというべきでしょうか。
それで、どうしたと思います?
あたしを詳しく調べたいと言い出したんですよ。身体の内も外も。
龍堂はわりに淡白な男でした。女は好きで、常に何人かを囲っていたようですが、そのわりに、女を抱きたいという欲望は薄かったみたいです。母の場合もそうですが、楚々として儚げな女が好きで、そういう女を守り、施しを与える自分が好きで、とそういう癖であったのかもと、今ならわかる気がしますね。
あたしは昔も今も、楚々とも儚げとも縁遠くはあります。ふふ、そのかわりに逞しいとか、図太いとかはけっこう言われますけれどね。
ほんとにね、楚々と儚げに生きていくなんて、あたしにはどうやっても無理です。無理な生き方をしないで済むなら、済むに越したことはないでしょう。
まあ、ですから、龍堂があたしに強い興を覚えたのは、男としてではなく医者としてに他なりません。滅多に出会えない珍しい身体、象や虎のような珍獣に高揚するのと同じ昂ぶりを覚えたのです。
龍堂は、あたしを閨(ねや)に誘いました。あたしが男と目合(まぐわ)えるのかどうか確かめるつもりだったようです。あたしが拒むと激昂しましてね、怒鳴り始めたのですよ。
恩知らずだの、誰のおかげでここまで生きてこられたと思ってるんだだの、母親ともども拾ってやったのにだの……もっと、酷い罵詈雑言を喚きましたかねえ。ええ、ちょっと口にするのも憚られるような醜い言葉をね。
龍堂は……光陵も似たところがあるのですが、他人、特に自分よりも格下だと見下している相手から拒まれたり、抗されたりすると、怒りを抑えきれない性質なのです。
その怒りのすさまじさに、あたしは怯えました。身が竦んで震えが止まらなくてね……。まあ、お二人とも、そんな露骨に、信じられないって顔をしないでくださいな。あたしは、若かったんですよ。男に怖(お)じるほど若かったのです。
末音が来てくれなかったら、どうなっていたことか。その答えが出るのは、もう少し後になります。
(この章、続く)












