(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)
本日2026年9月28日より、2026年度後期の連続テレビ小説『ブラッサム』の放送がスタートします。石橋静河さん演じる主人公・葉野珠のモデルは、激動の時代を駆け抜け、自由を求め続けた作家・宇野千代さんです。作家のみならず、編集者やデザイナーとしても活躍した宇野さんは、どのような人物なのでしょうか。日本近代史を専門とする日本大学商学部教授・刑部芳則さんの著書『宇野千代: 昭和モダニズムの伝道者』より一部を抜粋し、宇野さんの素顔に迫ります。

自由奔放な性格は父譲り

宇野千代は、明治30年(1897)11月28日に山口県玖珂郡横山村(現・岩国市川西)で生まれた。父は宇野俊次、母は土井トモで、母は宇野姓に改称する入籍届を怠ったまま、千代が約1歳半のときに死去してしまう。父は、川西から約16km離れた高森にある「宇野酒造」の次男であった。「宇野酒造」は奉公人の居住空間を含めて部屋数が32もあり、数千坪という敷地を有していた。ここは俊次の兄が継ぎ、その際に俊次にもかなりの高額が財産分与されたようである。

そうであるからか、庭の泉水には鯉や金魚が泳いでおり、当時としては珍しいカナリヤも飼っていた。しかし、千代が生まれ育った宇野家は決して裕福ではなく、茶粥を食べることも少なくなかった。千代は、明治37年(1904)4月に岩国尋常小学校に入学した。同年2月から翌年9月まで日露戦争であった。そうした風潮もあってか、千代は「女であるけれども戦争に行きたいと思い、ナイチンゲールのような優しい看護婦かジャンヌ・ダルクのような勇敢な女士官になりたいと思った」という(宇野千代「模倣の天才」〔『恋は愉しいか』〕)。学校の唱歌では「道は六百八十里」「雪の進軍」「戦友」など軍歌を歌っていた。

小学校まで錦帯橋が見える下流の臥龍橋を渡って約1kmの道を歩いて通った。通学には藁草履を履いていたが、雨や雪が降るとそれを手に持って裸足で歩かなければならなかった。俊次の「足は濡れても腐らんが、草履は腐るけえの」という教えによった(宇野千代『或る一人の女の話』)。また修学旅行へも行けず、鉛筆も握ることができなくなるまで使った。

宇野家で俊次は、柱時計の掛かった時計の間と呼ばれる部屋に一日中いた。「千代! 千代!」と大声で呼ばれると、千代はすぐに時計の間に行き、俊次の命令を聞かなければならなかった。放課後は友達と遊ぶことが禁じられ、日中は鳥の餌である「ひずり」(ハコベ)を取りに行かされ、夜になると酒を買いに出された。飼っていたカナリヤが逃げ出し、捜索を命じられたこともあった。

こうした児童虐待に近いスパルタ教育を行う一方、俊次は身勝手ともいえる生き方をしていた。千代は俊次を「バルザックかドストエフスキーの小説の中にしか出て来ないような一種の奇人乃至(ないし)狂人だった」と表現している(宇野千代『幸福を知る才能』)。

俊次は子供たちを外で自由に遊ばせることを好まず、門付けの芸人が「東西、東西」という掛け声で近所に来ても、千代は行くことができなかった。ところが、俊次は明治2年(1869)に開業した料亭旅館の半月庵に行っては芸者を呼んで遊び、遊郭で遊女を買ったり、賭博をして臥龍橋の前にあった岩国警察署に逮捕されたりしており、子供たちを厳格に躾けるような人物とは思えなかった。

そのような散財から財産は払底し、その後も「宇野酒造」から毎月1日と15日に「状箱」に入れた資金が送られてきたが、それでも足りず家計は苦しかった。俊次は競馬の競走馬も飼っていたが、新たにもう一頭買おうとしたとき、兄の政介にたしなめられ、送金を止められた。すると激怒した俊次は、馬で兄の家の玄関まで乗りつけ、大立ち回りの大暴れをした。

遊郭の常連客であったことから、不特定多数の女性と交際していたのだろう。実際、明治33年(1900)5月に俊次は千代の継母リュウと再婚したが、その後も不貞を働いていたからか、リュウは泣かされて実家に帰ろうとしたこともあったという。