燃える初恋
川下尋常高等小学校の代用教員の2年目となる大正4年(1915)の春に、宇野千代は川下村の農家を借りて1人で生活するようになった。夏頃には他村の教員をしていた村長の息子との縁談が持ち上がるが、千代は承諾しなかった。この縁談相手は千代の自宅を訪れているが、「面食い」の千代としては見た目にも好みではなかったのだろう。千代の心を動かすのは、大正4年3月31日に訓導として採用された新任教員であった。
千代は3年生の劣等生組を担当したのに対し、新任教員は3年生の優等生組を受け持つ。この教員は千代の私小説には幾度も登場するが、「篠田」「三浦」「玉田」「田村」「佐伯」と名前に違いがあり、はっきりしない。その後にひと悶着を起こし、新任教員が新しい家庭を持ったため、明確にすることを避けたのかもしれない。『宇野千代: 昭和モダニズムの伝道者』の執筆に際して山口県岩国市で関係各者に取材調査したところ、この教員は玉田精磨という人物であることが判明した。
さらに次のような興味深い記述も残されていた。玉田精磨の兄の隆義は後に川下尋常高等小学校の校長に就任する。その息子の太郎は精磨の甥にあたる。玉田太郎は「宇野千代さんはテレビでも告白されましたように紆余曲折の恋愛遍歴をされていますが、その第一発の初恋の相手が実は私の叔父なのです」と真相を書き残している。
また「宇野千代さんの言葉にありますような白皙の美青年でありました。私達にとっては人の良い優しい叔父でもありました。おそらく宇野千代さんの方が積極的であったために、破局が早く来たのだと思います」という(玉田太郎「宇野千代さんと私」〔『二一世紀』83号、1997年5月〕)。
この相手が初恋であったかは千代に聞くしかない。数ある私小説では、岩国高女(山口県玖珂郡立岩国高等女学校)時代に文通をした紺屋の息子など思いを寄せた相手が登場する。紺屋の息子が「僕は偉い軍人になってお国のために働きます。もうじき東京の学校へ行きます。天皇陛下万歳!」と書いていたため、千代は「私も看護婦になって赤十字社にはいります」「皇后陛下万歳!」と書き返した(宇野千代『私のお化粧人生史』)。
しかし、そうした相手とはそれ以上に発展はしなかったと見えて、ほとんど恋の話として描かれることはない。千代が積極的に行動を起こした「熱愛」という意味での初恋相手は、代用教員時代に出会った玉田と見てよいのではないか。
千代は気持ちを抑えられず、生徒に恋文を持っていかせた。なお、この恋文の伝令使も「奥野伝吉」などの架空名で見られるものの、実際には級長の三吉勇雄であったことがわかった。後年に川下小学校のクラス会で「私は先生の恋文を運んだ郵便屋でした」と語っている(『川下小学校百年のあゆみ』)。三吉は後に岩国市議会議長を務めた。千代は三吉を恋文の使者に選んだ理由について「一番たのみ易かったから」と回想している(宇野千代『一ぺんに春風が吹いて来た』)。
玉田に恋をすると、千代の和服にも変化が生じた。一反で4円80銭する「紺地に白の絣で手綱型になった大柄の銘仙」を買って着物に仕立てた。それに裏地をつけると、月給8円はなくなってしまう。母親に渡す分はなくなり、月給は化粧と和服の代金に消えていった(前掲『私のお化粧人生史』)。
千代はそのときの出で立ちについて、「大島紬の着物にカシミヤの袴、牡丹の花の刺繍をした半襟をぐっと襟許に重ね、顔は吃驚(びっくり)するほど濃く、綺麗に丹念にお化粧をしていました。昔でもこんな恰好をした先生は、めったになかったと思います。袴は穿いていても学校の先生ではなく、まァ、カフェの女給さん、と言う風だったと思います」という(宇野千代「自伝的恋愛論」〔『恋は愉しいか』〕)。