一本の糸を、薬指と小指の間で軽く挟む。

 続けて、その糸を人差し指にひっかけ、たるまないように指先を浮かせながら中指と親指でそっと糸の端を持つ。かぎ針編みの、基本の糸の持ち方だ。どれだけ凝った作品も、まずは一本の糸を正しく持つことから始まる。

 敦子は仕事帰りにときどき職場近くのファミリーレストランで岩本と落ち合い、編み物の練習会をするようになった。コーチ料として、食事代は岩本が出してくれた。ジェノベーゼパスタやマルゲリータピザを間に挟み、向かい合って慎重にかぎ針を動かす。まずは細長い三つ編みに似た鎖編みと、それを応用したブレスレットの作り方。鎖編みに慣れたらそれを土台に、線から面になるように、半目を拾って編み地を作っていく。

 岩本のつまずきは、かぎ針の向きと糸をすくう方向が安定しないこと、編む際にかぎ針を動かし過ぎて、編み目が広がることで生じていた。かぎ針は常に下向き、糸をすくうのも下向き、かぎ針を余分に動かさない、と念を押して練習を続けるうちに、均等で綺麗な編み目が生まれるようになった。

 生成り色の毛糸と、淡い色から濃い色へブルー系のグラデーションになった毛糸で四角いコースターを編みながら、岩本は自分が中途入社であること、福来屋に来る前はプロモーション会社に勤めていたことを語った。

「社員十人ほどの小さな会社だったんですが、音楽業界と縁が深い社長のツテで、結構面白い仕事をさせてもらいました。映画の宣伝をしたり、アーティストのミュージックビデオを作ったり」

「すごい。創造的なお仕事をされてたんですね」

「ただ、なんというかアナログな会社で……テクノロジーの進化に対応できず、どんどん顧客が減っていったんです。私が辞めた二年後に倒産しました」

「あらら」

「福来屋さんに拾ってもらえて本当によかったです。今は必死で、最先端のマーケティングツールを勉強してます……うわ、目がわからない。どこに刺すんでしたっけ」

「ここですね、ここ」

「あ、なるほど」

 慎重にかぎ針を動かし、岩本は毛糸の群青色の部分をすくって編み目から引き出した。生成り色の毛糸から編み始め、全体の三分の一ほど編んだところで、グラデーションの毛糸に切り替えている。敦子がおしゃれですね、と声をかけると、岩本は少し照れくさそうに「波打ち際をモチーフにしてみました」と笑った。

 ―よくそんなの思いつくなあ。

 敦子は自分が編んでいるライトグレーの手袋に目を落とした。質のよいカシミヤの毛糸を使った、いたってシンプルなデザインだ。愛用している手芸本の編み図を参考にしている。これはこれでいいものだ、使いやすいものだ、誰にあげたって喜ばれる、とわかっている。ただ、創造的だとは思わない。複数の毛糸を組み合わせるとか、凝った模様をつけるとか、敦子はそうした新しいイメージの構築が苦手だ。考えているとすぐに疲れて、無難な方へと流れてしまう。

 それに比べて、一人の人間の思いつきから作られた岩本のコースターは、スキルを磨き、素材を厳選したら、いつか作品として販売できそうな遊び心やたくらみを感じた。趣味の編み物ですら、自分より遅く始めた岩本の方が、ずっと楽しんで作品作りをしている未来が見える。編み物に没頭し、それを追求して満たされる人生だってあるはずだ。でもそんな人生も、自分のもとにはやってこない。

 敦子の指が止まった。じっと、宙に浮いたかぎ針の先を見つめる。