「あさま山荘事件」から50年。写真は冬の浅間山。(写真提供:写真AC)
1972年2月19日、連合赤軍の5人が軽井沢の山荘で10日間にわたって籠城した「あさま山荘事件」と、その後発覚した一連の「連合赤軍事件」。その後、何度も映画や小説の題材になってきたが、戦後の女流文壇の第一人者と評される円地文子(えんちふみこ)氏も、犯人の家族に焦点をあてた長編「食卓のない家」を生んでいる。事件から50年経ったいま、作家・篠田節子氏があらためて読んで感じたこととは――。

なぜ「食卓のない家」は批判されたのか

円地文子は「なまみこ物語」から入り、私がもっとも影響を受けた作家だが、長い創作期間に書かれた多様な作風の作品の全貌は未だに掴み切れない。

「食卓のない家」は古希もとうに過ぎた円地が、大家としての揺るぎない地位を獲得した後、戦後に移植された原理原則としての個人主義と、中世に遡る「家と血」の縁、そして「甘えの構造」に象徴される「情」の葛藤を通し、中産階級の家庭崩壊を描ききった最晩年の傑作であろう。

1971年から72年にかけての冬、世界同時革命を標榜する学生集団による連合赤軍事件が起きた。首都襲撃計画や警察側に死者を出した立てこもり事件の後、「総括」と称する仲間内の凄惨なリンチ大量殺人の事実が明らかになり日本中が震撼した。

その6年後、まだ人々の記憶が生々しい時代、78年の2月から12月にかけて、日本経済新聞にその事件を素材として執筆、連載されたのが本書「食卓のない家」だ。

実作者の立場からすれば、こうした長編を仕上げるには最低でも3年から4年の準備期間が必要であり、構想自体は事件直後からあったものではないかと思う。最近になって、連合赤軍事件を題材にした映画や小説がいくつか出たが、事件直後、後世の人々による検証を受ける前に、その時代を生きていた作家の手によって書かれたという点で「食卓のない家」は極めて貴重な作品と言える。

発表当時の本作の評価は必ずしも高いものではなく、酷評されることさえあったと記憶している。

批判の第一は、源氏物語の現代語訳や古典に題材をとった文学作品で功績のある女流大家が、なぜ今更、専門外である社会派作品に手を出す必要があったのか、といったもの、第二は、この作品は父親の女性関係や家庭の事情を細々書いているが、事件の主役となった学生たちの思想と、彼らを過激な行動に走らせていった当時の社会の抱えた政治的経済的背景が、説明程度にしか描き込まれていない、といったものだ。