1936年、ベルリン・オリンピックで、日本人女性初の金メダルを手にした前畑秀子
1936年、ベルリン・オリンピック日本女性初の金メダルを獲得した前畑秀子さん。決勝戦で「前畑ガンバレ!」とアナウンサーが叫んだことも有名です。現在放送中のNHKの大河ドラマ『いだてん』では上白石萌歌さんが演じて話題になりました。今回特別に、遺族の許可をえて、前畑さん自身が帰国直後に『婦人公論』1936年11月号に寄せた手記を公開します。そこには、プレッシャーからの解放、そして支えてくれた人の感謝…さまざまな想いがあふれています。

ベルリン・オリンピックに於(おい)て祖国日本のために涙ぐましき力泳を続け、遂にベルリンの空高く大日章旗を高く高く翻えした我が前畑秀子さんの栄光の上陸第一歩の報告書です。この輝かしき栄光の蔭に力ある今は亡きお母様、母校の方々、また共にプールで親しんだ亡き友へのやさしき思慕。これを最後として競技界を退かれるに当(あた)って特に本誌のために書かれたものです

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これでいい、もう不安はない

四ヶ月ぶりに、なつかしい祖国の土を踏みました。

十月三日午前八時、――細雨けぶる宮城前に整列して、秩父宮殿下御下賜の大日章旗の下に、心からの遥拝(ようはい)をいたしました時には、もう胸が迫って、ただ涙ばかりがこみ上げてくるのでした。

おもえば過ぐる六月十日、母国の皆様の熱烈なる歓呼激励の声に送られて、オリンピック聖戦への門出をいたしましてから、ここに四ヶ月、どうやら責任を果して帰りましたものの、その四ヶ月をふりかえると、すべてがただ夢のように思われます。

「今度こそ、石に齧りついても勝たねば……」と、遠征の途上、私は、どんなにか心に誓ったことでしょう。昭和四年、ハワイで行われた全米女子水泳大会の本大会ではゲラティ嬢に敗れて二着。昭和七年のロスアンゼルス大会二百米(メートル)平泳にはオーストラリヤ選手デニス嬢と覇を争い、僅か一掻きの差で二着、――私は一度ならず二度まで優勝を逸した苦い経験をもっていますだけに、ほんとは今度は人知れず苦しみました。

両大会の雪辱をかたく胸に期して出かけたのですが、さてドイツへ着いてみますと、異郷の慣れぬ生活と環境からか、妙に気おくれがして、一向調子が出ないのです。ゲネンゲルやヘルツネルなど、ドイツの名選手が好調で、盛んに好タイムを出すという情報を耳にするたび、重苦しい気持に襲われました。

朝と昼、毎日プールで練習しましたが、幾日経っても調子が出ません。日本選手のだれもかれもがよい記録で泳ぐのに、自分ばかり、依然として身体が重い。十日経ち、十五日経っても、よくならない。大会はだんだん迫る。私は全く泣きたいほどでした。

「癖やフォームは一朝にしてなおるものではない。どんな批評があるかもしれないが、むしろ自分のフォームを守って、懸命に努力することだ」と、名古屋駅頭でお別れの時、仰有(おっしゃ)った天野重朗(あまのじゅうろう)先生のお言葉がゆくりなくも思い出されました。技術ばかりでなく、精神的な訓練を、いつも与えて下さった、あの天野先生でも、もしここにおいで下さったなら……

打ち明けることも出来ない苦悩を、親友小島一枝(こじまかずえ)さんに丈(だ)けは洩らして、慰さまざまなめ合い、励まし合っていた矢先、――忘れもしません、栄(はえ)ある入場式も明日という七月三十一日の夜、宿舎、クラウエン・ハイムの電話は、突然、私を呼びました。

「前畑さん、お電話です」

はて、どなただろうと、訝(いぶ)かりながら受話器をとると、耳朶(じだ)を打った意外な声!

「前畑か? 天野だ。今ベルリンへ着いた。校長先生からのお勧めでやって来たよ」

その時の私の感激! 受話器をもったままぼんやりしてしまったほどでした。小島さんも電話の傍(そば)で、目を赤くしていました。

「これでいい、もう不安はない。一生懸命やらねば……」二人はおもわず手を握って、喜び合いました。