(写真撮影:本社・奥西義和)

福井で育った一人の「歌の上手い少年」が歌手を夢見て上京。1964年、16歳でレコード会社と契約した。少年の名は、松山数夫。その後、松山まさる、一条英一、三谷謙と名を変えて、23歳で五木ひろしとなる。
今でこそ押しも押されもせぬ大スターの五木ひろしさんが、スターになるまでにかかった年月は6年あまり。しかし、夢をあきらめたことは一度もなかったという。
昭和、平成、令和と日本の芸能界に身を置き、第一線をひたすら走り続けながら、いまだに進化を続ける五木ひろしさんのパワーの源とは―――?

(構成◎吉田明美 撮影◎本社・奥西義和)

前編はこちら

「50歳までは結婚しない」と公言していた

苦労した時代が長かったので、最初にコンサートをしたときは、お客さんに「本当に僕のステージを見に来てくれたんですか? このあとに誰かいい人が出るから来たんじゃないですか?」と疑ったりして…。(笑)
ああ、僕の歌を聴きにきてくれたんだなあと実感できるまでに2年ぐらいかかりましたね。

売れてからもとにかく必死でした。1日も休まなかったです。休めば戦いに出遅れると思っていた。だからオフの日があるとマネージャーさんに「ここ、仕事いれてよ」ってお願いして…。20代は今では考えられないほど、忙しかったです。テレビも月に30本、40本とこなし、劇場公演もやり、コンサートで地方を回ったり、ディナーショーをしたり、お正月から年末までずっと働いていました。ステータスになることはなんでもやりたかった。すべて闘いでしたね。

不安なんですよ。売れなかったらどうしよう。一発で終わったらどうしようと…。ヒットが出て、周りが喜んでいるときにも「喜んでいる場合じゃない。次を考えなくちゃ!」って、いつも先を考えてしまっていました。レコード大賞を獲ると、「次の年はよくないっていうジンクスがあるよなあ」と心配して…。

コンサートをしていても、お客さんに喜んでもらうためにはどうしたらいいだろう、また来てもらうにはどんな演出をしようかといつも必死で考えていましたね。
そういえば、絶対に許せないと思っていた3人が、その後、僕がもっと売れるように誠心誠意協力してくれたんです。だからもう今は許しました。(笑)

絶対に許せないと思っていた3人が僕が売れるように誠心誠意協力してくれたんです。だから許しましたと語る五木さん(写真撮影:本社・奥西義和)

「五木ひろし」としてデビューして、ヒットを飛ばし続けて押しも押されもせぬスターとなり、紅白にも出場してトリも務めた。それもみんなファンのおかげと「ファン」を大切にしてきた五木さんは「ファンが恋人」と言い続け「50歳までは結婚しない」と公言していた。しかし、40歳のときに、11歳年下の女優和由布子と出会ってしまう。

妻とはその前にも着物のイベントで出会ってはいるんですが、その後、彼女が女優として注目され始めてから、松竹のお正月公演で共演することになり、夫婦の役をやりました。僕は普段から人より早く劇場に入って1人で朝練をやるんですが、何日かしてそれを裾から見てる人に気が付いた。それが彼女だったんです。こんなに早くから来て稽古を見てくれてるんだ、とか思ってね。で、帰りに彼女が先に帰るときには、「お先に失礼します」なんて置手紙が。それが毎日なんですよ。こんな人今までにいなかったなあと…公演の間にどんどん惹かれていきました。

芝居の最後のシーンで、2人が「幸せになろうね」と手をつないで花道を歩いていくんですが、ファンの人から「初日と手のつなぎ方が違う。なんか雰囲気が変わってきてる」って言われちゃったんですよ。鋭いですね~。(笑)