秀吉が最大の敵と認識していた柴田勝家とは何者か(歌川義育「太平記英勇伝十三:柴田修理進勝家」(1867年)/東京都立図書館所蔵、CC-PD-Mark/Wikimedia Commons
織田家きっての重鎮ながら、信長没後の争いで秀吉に出し抜かれた敗者のイメージが強い柴田勝家。現在放送中のNHK大河ドラマ『どうする家康』でも、お調子者で機転が利く秀吉と対照的なめっぽう強い無骨者を、俳優・吉原光夫さんが演じている。『織田信長の家臣団』などの著書を持つ戦国史研究家・和田裕弘さんによると、かの秀吉も勝家が最大の敵であると認識していたそうで――。

秀吉の引き立て役としてのイメージが付きまとう勝家

歴史好きの方で柴田勝家という戦国武将を知らない人は、まずいないだろう。知名度は抜群である。だが勝家にはどうしても豊臣(羽柴)秀吉の引き立て役としてのイメージが付きまとう。

墨俣(すのまた)一夜城の築城に失敗し、その功を秀吉に奪われ、本能寺の変後の対処では秀吉の後手に回って清須(きよす)会議で秀吉の独断を許し、最後は賤ヶ岳の戦いで「猿冠者(さるかじゃ)」と軽蔑した秀吉に敗北し、自害して果てる。

猪突猛進型の猛将という印象が強く、抜け目のない秀吉にまんまとしてやられたという描かれ方が多い。また、織田信長在世時から勝家と秀吉は仲が悪かったという刷り込みもある。

勝家に関する逸話を見ると、たしかに「瓶割(かめわり)柴田」「鬼柴田」など勇猛果敢な武将という側面が強調されているものが多いが、最期に臨んですがすがしい振る舞いを見せたという逸話も伝わっている。

敗戦の責を他人に求めず、また家臣に対しても、ともに自害することを強要しないなど、大将たる器にふさわしい度量を備えた武将という一面も垣間見られる。