彼女たちを悪妻と呼べるだろうか
六話の短編には六人の「妻」が登場する。
そして「妻」の数だけ「夫」がいる。彼らはどこか「妻」に対して後ろめたい。
冒頭、「悪い妻」の主人公千夏は、ロックバンドボーカルの夫・倫司の音楽仲間から「悪妻」扱いされている。既婚者となった倫司のファン離れを防ぐため、らしい。
スポットライトを浴びる夫と、自分も音楽を続けたいのに仕事と子育てに忙殺され、それが叶わない妻。妻は自分だけが損をし、そのうえ「悪妻」呼ばわりされることに我慢ならなくなる。
夫婦は同じ世界で、その存在を他者に認められることがひとつの幸福なのかもしれない。結婚以来、世界の蚊帳の外におかれた千夏は取りつかれたように倫司のライブ会場へ来た。悪妻への境界線は、ステージと客席の間に浮かび上がる。
表題作「もっと悪い妻」の麻耶は夫公認のもと、元恋人との時間を楽しんでいる。彼女は夫も元恋人も好きで、どちらを選ぶこともできない。そのことを夫にも隠さない。彼女を「悪妻」と呼べるだろうか。自分に正直でいられる麻耶は清々しいほどだ。
世間でいう「妻」は夫や子の世話をするのがデフォルトとされているせいか、逆にいえば手を抜くことが本人に罪悪感をもたらすこともある。「妻」は世の価値観や常識に見張られ、自らを犠牲にしがちだ。嫌だと思っても「妻」の重圧がのしかかってくる。
あるいはもっと別の誰かの「妻」になれば人生は違ったかもしれない。「妻」は常にがんじがらめで息苦しいのに、家庭の役割を放りだしているのは圧倒的に「夫」。
そういう意味でも、本書に登場する男は「夫」の立場に逃げ込んだ者ばかり。翻って「妻」は我慢し、耐えながら、どこかで反転攻勢の時期を待ってきたのだ。
「妻」たちのしたたかさに、ふと笑みがこぼれてしまう。ビバ「悪妻」!