閉鎖的な言論空間に疑いを持つ
だから、SNSで行われる議論の深まりには限界がある。それに、相手の顔や表情、声色、体温が伝わらない場面では、どうしたって相手の生身の存在感は薄くなる。そうなると、相手への敬意や配慮も薄くなっていく。
面と向かって言えないようなキツイ、乱暴な言葉も、SNS上では簡単に相手にぶつけられてしまう。それによって相手がどれほど傷つくか、なんてことに思い至れない。
そんな、相手の実態や実存を感じられないがゆえに繰り出される鋭利な言葉の数々に触れることに疲れてしまったのだ。
それにSNSで投稿できる短文で説明できることなど元々限られているのだ。物事を説明するのはそんなに簡単なことではなく、まず前提を共有すること、たくさんの言葉を尽くし、補足をすることが必要だ。
それなのにSNSでは短文で意見を書かないといけない。当然、誤読や曲解が多発する。Aと言ったら、Bはどうなんだ、Cにはなぜ触れないんだと言われ、永遠に揚げ足の取り合いになる。
そんなインスタントで閉鎖的な言論空間に少しでも心を預けることに、いつからか疑いを持つようになった。