関ヶ原の戦いの目的は何か
慶長5年(1600年)(以下年次はみなこの年です)の7月17日、美濃・関ヶ原での決戦の約2ヶ月前、西軍は「内府ちがいの条々」を作成し、発表しました。
内府(内大臣)の家康は、亡き秀吉さまのご意志に背いている。だから討伐する。家康の違反行為が列記され、五奉行のうち当時も職務に従事していた前田玄以、増田長盛、長束正家が署名します(三成と浅野長政は引退)。
「内府ちがいの条々」は西軍の行動理念を明示するものです。これに従えば、豊臣政権下の重臣である家康を、同じく重臣である輝元が皆の助力を得て討ち果たす、ということになる。
家康と輝元は豊臣家家臣という意味で同格ですので、西軍の大将は輝元、となります。
でも家康の理解は異なる。彼は会津に行く途中で西軍の蜂起を知り、軍勢を返して西に向かいます。このとき彼はすでに「豊臣家家臣」の枠から離脱している。
新たな天下人の候補として、天下人・秀頼に挑戦状を叩きつけているのです。この家康視点に立てば、家康と同格は秀頼。西軍の大将は秀頼、となります。
そして先の2、戦いの目的は大坂城を手中に収め、秀頼の生殺与奪の権を握ること、になる。