江戸幕府はこの時に始まる

家康はこのあと、文書による交渉(これも立派な戦いです)を行います。その結果として9月25日に輝元と毛利勢は大坂城を退去。翌々日の27日に、家康は大坂城に入ります。

これが本当の戦いの終わり。

家康はすぐに諸大名の処遇、具体的には領地の増減の決定に着手します。これこそは将軍権力を構成する2つの要素のうち、より重い「主従制的支配権」の発露です(もう一つは「統治権的支配権」)。

まさに家康は秀頼に代わって天下人になったわけで、諸大名は豊臣秀吉・秀頼との主従制を破棄し、徳川家と新たな主従関係を結ぶのです。

ですので論理的には、江戸幕府はこの時に始まる、と考えるべきだと思います。

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「将軍」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)

幕府のトップとして武士を率いる「将軍」。源頼朝や徳川家康のように権威・権力を兼ね備え、強力なリーダーシップを発揮した大物だけではない。この国には、くじ引きで選ばれた将軍、子どもが50人いた「オットセイ将軍」、何もしなかったひ弱な将軍もいたのだ。そもそも将軍は誰が決めるのか、何をするのか。おなじみ本郷教授が、時代ごとに区分けされがちなアカデミズムの壁を乗り越えて日本の権力構造の謎に挑む、オドロキの将軍論。