土佐一国の国持ち大名として

ちなみに太閤検地の頃、諸大名は自身の領地を、なるべく少なく、申告しようとしていました。出兵でも、様々な物資の徴集でも、領地の多寡が基準になったからです。つまり実高はもっとある。

それを見越して、家康は「土佐一国を一豊に」と決めたのでしょうか? あるいは、土佐は一国の「国持ち大名」という格式は、すごく誇れる待遇だったのでしょうか?

ただし、とりあえず山内家で検地をやり直してみたら、土佐一国で20万石もあったようで、これなら一豊も大満足だったことでしょう。さらにこのあと、土佐藩は農地の拡充に努めたようで、幕末の頃には、石高(実高)は50万石に及ぼうとしていたようです。

最後にお城の話を。

高知城はとてもフォトジェニックで、大手門から写真を撮ると、天守閣がばっちりフレームに入り、構図が決まってかっこいい。この天守閣を作るときに、一豊は「すべて掛川城のようにせよ」と指示を出したといいます。

復元された掛川城天守(写真提供:Photo AC)

本家の掛川城天守は、1854年(安政元年)末の安政の東海地震によって倒壊してしまったのですが、1994年(平成6年)に再建されました。日本初の木造復元天守(むかし建っていた姿に忠実に造った天守閣のこと)です。このとき、高知城の天守閣が大いに参考になったと聞きます。


「将軍」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)

幕府のトップとして武士を率いる「将軍」。源頼朝や徳川家康のように権威・権力を兼ね備え、強力なリーダーシップを発揮した大物だけではない。この国には、くじ引きで選ばれた将軍、子どもが50人いた「オットセイ将軍」、何もしなかったひ弱な将軍もいたのだ。そもそも将軍は誰が決めるのか、何をするのか。おなじみ本郷教授が、時代ごとに区分けされがちなアカデミズムの壁を乗り越えて日本の権力構造の謎に挑む、オドロキの将軍論。