年1500件の内視鏡検査

臨床を3年やったら大学の研究室に戻るつもりだったが、病院の人事の都合でストップがかかった。現場に医師が足りないというのだ。さらに1年、臨床医として診療を続けた。

「当時はほとんど病院に住んでいるようなものでしたね」と小林は言う。

最初に受け持った患者を4人連続で亡くして以来、小林は何かを吹っ切るかのように、「徹底的に臨床をやった」そうだ。

「朝から晩までずーっと臨床です。がんの内視鏡の検査だけでも1年で1500件を超えるペースでやってました。夜になったら自分で病理の勉強もしてましたけど、うとうとしているとあっという間に朝が来る。その繰り返しでした」

がんの内視鏡の検査だけでも1年で1500件を超えるペースでやってました(写真提供:Photo AC)

学生時代にやっていた研究をフォローすることすら難しかった。

「なにせあの4年間は、忙しすぎて論文を1本しか書いていませんからね」

「毎日毎日相当暗い顔をしていた」小林に、声をかけてくれたのが京大の核医学の助教授だった遠藤啓吾だった。小林は遠藤に誘われたこともあって、大学に戻る決心をしたという。猛烈な受験勉強をして院試を突破し、京大の大学院に入った時には小林は29歳になっていた。

学部時代の同級生からは4年の遅れを取っていた。

「まさに周回遅れですよ。一から仕切り直しだと思いました。僕がやっていた放射線治療だけじゃなくて、当時の抗がん剤治療も、外科手術も、がんに対しては決定的な治療ではありませんでした。本当に多くの、実際の患者さんを臨床の現場でこの目で見ていましたからね。どうにかしてがんに効く治療法を作りたいと考えていました」

大学院時代の小林が学位論文に没頭したことはすでに触れた。そして、NIHに留学し、戻ってきた小林は「どん底の研究生活」にあえぐことになる。

小林が、それでも研究者であることにこだわったのはなぜなのだろう。