もう、何をやっても無駄
「失礼します」
少々緊張しながら扉をノックして診察室に入ると、白衣を羽織ったベテラン風のドクターがパソコンの前に座ってモニターを見つめていました。
「どうぞ」とか「お待たせしました」といった言葉もなく、まったくこちらへ視線を向けてきません。
(あれ? 僕の番でいいんだよな?)
不安を覚えつつ、目の前に置かれた丸椅子におずおずと腰掛けると、医師はモニターに目をやったまま尋ねてきました。
「お名前と生年月日は?」
「小倉一郎、1951年10月29日生まれです」
再び、気まずい沈黙が流れます。
無言でキーボードを打ち込み、カチカチとマウスを動かしていたドクターが、やおら口を開きました。
「がんです。ステージ4の肺がん。このレントゲン画像を見てください」
指さしたモニターには、向かって左側に5センチ超、右側にピンポン玉大の白い影がクッキリと映し出されていました。
そして、こう続けたのです。
「手術も、放射線治療も、抗がん剤も、完治は見込めません」
患者にとっては絶望的な事実を伝える間も一度として僕と目を合わそうともせず、その表情や声からは一切の感情を窺(うかが)い知ることはできません。手術も、放射線治療も、抗がん剤も、完治は見込めない――。
僕には“もう、何をやっても無駄”としか受け取れませんでした。
これまで仕事でたくさんのステージに立ってきたけれど、今まさに、最も絶望的な舞台に立たされているのを、はっきり理解しました。
ステージ4だかステージ5だか知らないが、もう、いい。もう、たくさんだ。
僕は一言だけ応じました。
「わかりました」と。
横の妻を見やると、うつむいて両の手を握りしめ、必死で耐えています。
その時、坂本マネージャーが震える声で質(ただ)しました。
「余命はどれぐらいでしょうか?」
「1年か2年か……そんなところでしょう」
淡々と答えるドクターの声は、遠いところから響いてくるようでした。