好きなものができると、人生は豊かになる、幸福になると言われるとき、私は少しだけ苦しくなる。好きであればあるほど、私はたまにとても悲しくなり、つらくなり、そしてそのたびに私はその「好き」が、自分のためだけにある気がして、誰かのための気持ちとして完成していない気がして、いたたまれなくなる。好きな存在にとって少しでも、光としてある気持ちであってほしいのに、私は、どうして悲しくなるんだろう?
 私は、宝塚が好きです。舞台に立つ人たちが好き。その好きという気持ちが、彼女たちにとって応援として届けばいいなと思っている。そして、同時に無数のスパンコールが見せてくれる夢の中にでも、悲しみもある、不安もある、そのことを最近はおかしいと思わなくなりました。未来に向かっていく人の、未来の不確かさをその人と共に見つめたいって思っている。だから、そこにある不安は、痛みは、未来を見ることだって今は思います。好きだからこそある痛みを、好きの未熟さじゃなくて鮮やかさとして書いてみたい。これはそんな連載です。

 自分がその人を応援する気持ちがその人にとってどんな意味をなすんだろう、と考え出すと、何もわからなくなるし、何も言えなくなる。考え出すとキリがないというのもあるし、今はどこかで、そのことで私が落ち込んでいる場合ではない気もして、手紙を書いては送っていた。いろんなことが悲しくて、考え出すと本当に落ち込むのだけれど、私はそうやって考えを巡らすことで自分が傷つくのをやめたかった。人に優しくしたい。人に向けてずっとあった愛情をそのままで、今も届けたい。悲しみながら、悲しみの方角を、私の心を傷つけることではなく、ちゃんと「伝える優しさ」や「伝える愛情」にできたほうがいいと、ここ1ヶ月で思うようになっている。

(イラスト◎北澤平祐)

 これは私の個人的な応援の記録だから、もちろんそれが正しいのかとか最適なのかとかはわからない。私はそうしたくて、そうしているという話で、いつまでもそれだけ。応援してる人の公演が初日を迎えないまましばらくお休みになり、やっと最近、初日が決まったけれど、だいぶ公演日数が少なくなった。楽しみだとも思うけど、幕が上がると決まった、ということに、大丈夫なのかなぁとどうしても思う。でも、せめて、幕が上がるなら、舞台から見える景色がその人を少しでも励ますものだといいなと思った。