終戦

1945(昭和20)年8月15日、百福と仁子は上郡で終戦を迎えました。百福は、青畳の上に思い切り体を伸ばし、玉音放送を聴いていました。仁子は、家族全員が無事に生きのびられたことに安堵するのでした。

上郡から千種川を下ると赤穂の港に着きます。そこには江戸時代から伝わる播州赤穂の東浜塩田がありました。海水を煮詰めて塩を取り出す過程で「にがり」を含ませる「差塩(さしじお)製法」を特徴とし、赤穂の天塩として有名でした。目の前にこんな工場があれば、百福の好奇心が発揮されないわけがありません。

いったん関心を持つととことん研究し、それを事業のヒントにするのが百福のくせでした。じっくりと観察し、塩作りの手法を一通り頭に留めることができました。この偶然が、百福の戦後最初の仕事につながっていくことになるとは、本人も知る由もありません。

終戦の翌日、百福と仁子は汽車に乗って大阪に出ました。汽車は家の様子を見に戻ろうという疎開者でいっぱいでした。大阪駅に立つと、御堂筋沿いに焼け残った大ビル(旧大阪ビルヂング)やガスビルが見えましたが、ほかは一面、がれきの山でした。

御堂筋の先は難波あたりまで一望でき、奈良の方角には生駒山や葛城山が手の届くほど近くに見えました。百福の事業の中心だった心斎橋の事務所や、天王寺勝山町にあった工場などはすべて焼け落ち、灰になってしまいました。

「これから、どうなるのでしょうね」と、仁子は不安でいっぱいです。

さまざまな苦難を乗り越えてきた百福も、さすがに、この惨状を目の当たりにしてはどんな思案も浮かびません。仁子の手を強く握って、焦土の上を黙々と歩くだけでした。