生涯の友
戦災によって、百福が取り組んできた事業はすべて灰になりましたが、幸いメリヤス会社を興して以来の蓄えがありました。焼けた工場、事務所の火災保険金も入ってきました。
「君、こういう混乱期には不動産を買っておくものだよ。あるだけの金をはたいて土地を買ってしまいなさい」
久原房之助に相談すると、こう助言されました。
「経済が復興すれば、モノは増えていく。しかし、土地は生産によって広がることはないからな」
金を儲けることだけが目的なら、それでよかったのでしょう。百福はいつも、世の中のためになりたい、人に喜んでもらいたいと考える人でした。しかし、その頃は呆然として、これからどう生きるかを考えることで頭がいっぱいでした。割り切れない思いを抱きながら、とりあえず土地を買うことにしました。
終戦直後、土地は二束三文でした。心斎橋の店舗が一軒五千円で買えました。そごう百貨店の北側などつごう三軒を買いました。ほかに梅田新道や大阪駅前の土地も手に入れました。大阪駅前の土地にはのちに貿易会館を建て、大阪の政財界人が集まるサロンのような場となりました。
百福には戦前から、親しく相談できる友人、知人が何人かいました。久原房之助もその一人でした。久原は日立製作所の母体となった日立鉱山をはじめとする久原財閥を築いた人で、のちに、田中義一内閣の逓信相を務めました。人生の大先輩です。なぜこんな偉大な人物と知り合いになれたのでしょうか。
話はさかのぼりますが、百福がまだ若い頃、総理大臣だった田中義一の家を訪ねたことがあります。司法書士をしていた叔父が田中と付き合いがあり、「お前も商売をやるなら顔が広い方がよかろう」と、連れて行ってもらったのです。
相手は旧長州藩士の家に生まれ、陸軍大将になった軍人です。恐ろしくて口もきけませんでした。ただ、その時紹介された息子の田中龍夫と親しくなりました。龍夫は当時、東大の学生で百福と同い年、よく気が合って生涯の友となったのです。のちに龍夫は、貴族院議員、山口県知事、衆議院議員となり、総務長官、文部大臣などを歴任します。
久原は義一が亡くなった後、龍夫の後見人として面倒を見ていました。その関係で、龍夫と一緒に東京都港区白金台の久原邸(現在の八芳園)に遊びに行くようになりました。百福は小さい時から多くの人の中で育ちましたので、人の気持ちを素早く察する能力がありました。「細かいところによく気が付く」というので、久原に気に入られたのです。
疎開先で仁子は赤ちゃんを身ごもりましたが、妊娠八か月足らずの早産児だったため亡くなりました。女の子でした。百福は大阪に行っていて不在でした。第一子の誕生を楽しみにしていた百福は怒りが収まらず、上郡に帰るなり仁子の顔も見ないで、産婆さんの家に怒鳴り込みました。
しかしどうしようもありません。仁子は産後の肥立ちが悪く、いい医者がいなくて困りましたが、例によって、百福がどこからともなく食べ物を持ち帰り食べさせてくれました。仁子は、持ち前の体力で回復したのです。