東京大学資料編纂所・本郷和人先生が分析する「武田信玄の失敗」とはーー(写真提供:Photo AC)
2023年に放映された大河ドラマ『どうする家康』。家康は当時としてはかなりの長寿と言える75歳でこの世を去っています。「家康が一般的な戦国武将のように50歳前後で死んでいたら、日本は大きく変わっていた」と話すのが東京大学史料編纂所・本郷和人先生です。歴史学に“もしも”がないのが常識とは言え「あの時失敗していたら」「失敗していなければ」歴史が大きく変わっていたと思われる事象は多く存在するそう。その意味で「武田信玄のとある失敗」が歴史に与えた影響は絶大だったそうで――。

国へのこだわりに絡め取られた信玄

前回、武田信玄最大の失敗「長男・義信の自死」について触れました。

もうひとつ、これは失敗ということではないのですが、信長と比較して、信玄は「国」という単位にこだわり過ぎた気がします。

信玄は甲斐の隣の信濃を攻略した。これは先に述べたように信濃を攻略することで、甲斐本国の盾にするという意味があったのだろうと、僕は考えていますが、そこは固執しません。

「そこに信濃があるから取った」ということならばそれまでですが、ここでの問題は、信玄は「信濃国」というまとまりにこだわり過ぎたのではないかということ。

信玄は10年をかけて南信濃を支配下におく。と、そこに謙信がやってきて川中島で戦いを繰り広げます。謙信とは10年間も戦い、計20年をかけて信濃国を自分のものにします。そして信玄は、室町幕府が与えるその国のリーダーの資格、守護を手に入れ、さらに朝廷が与える資格である国司の官も入手し、信濃守になりました。

つまり信濃国を完全に自分のものにしたわけですが、はたしてこれらにそこまでの意味があったのでしょうか。信濃守護も信濃守も名前だけだと思います。