信玄が気の毒でもある

信濃の完全支配にはこだわらず、10万石はひとまず置いて、ほかの地域へ進出する考え方もあったのではないか。

信濃国はあれほど広いのに、山が多いために40万石しかない。甲斐本国は20万石なので、合わせて60万石。

一方で、信長はまだ20代で尾張を統一しています。今の愛知県の3分の1くらいの範囲ですが、57万石ありました。となると、信玄が晩年に差し掛かって得た領土規模を、信長は20代の若さで既に達成していたわけです。

もっともこれについては、信長が恵まれていたという面は否めません。

彼は尾張を統一した後、北の美濃に侵攻し、返す刀で北伊勢も占領します。これらがまた尾張と同じように豊かな地域で美濃だけで60万石もありました。さらに伊勢全体では60万ですが、占領できた北伊勢がその半分として30万石。つまり信長は、30代前半で既に150万石もの領土を持っていたことになります。当時の信長を足利義昭が頼ったのも必然で、ほかにこれほどの力を持つ大名はいないのですね。

しかし、こうしてまとめたうえで、あらためて信長が150万石になるためにかけた労力と、信玄が60万石になるまでの労力を比べてみると、なんだか信玄が気の毒にも感じてしまうのは僕だけでしょうか。

※本稿は『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。


「失敗」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)

出版業界で続く「日本史」ブーム。書籍も数多く刊行され、今や書店の一角を占めるまでに。そのブームのきっかけの一つが、東京大学史料編纂所・本郷和人先生が手掛けた著書の数々なのは間違いない。今回その本郷先生が「日本史×失敗」をテーマにした新刊を刊行! 元寇の原因は完全に鎌倉幕府側にあった? 生涯のライバル謙信、信玄共に跡取り問題でしくじったのはなぜ? 光秀重用は信長の失敗だったと言える? あの時、氏康が秀吉に頭を下げられていたならば? 日本史を彩る英雄たちの「失敗」を検証しつつ、そこからの学び、もしくは「もし成功していたら」という“if"を展開。失敗の中にこそ、豊かな"学び"はある!