広い領土があっという間に失われて
その謙信は先述の通り、49歳で亡くなる。
彼の亡くなる前、上杉家の領国は越中全域、能登、そして上野の半分まで広がっていました。かなり広い領土があったにもかかわらず、謙信亡き後、あっというまに失われ、ほぼ越後だけになってしまいます。
なぜこんなことになったのかと言えば、それは上杉家が後継者問題で真っぷたつに割れたため。
謙信は結婚していませんから、子どもはいなかった。そのため姉の子である上杉景勝を養子に迎えていた。こちらは謙信と血が繋がっていますから、後継者としてみなの納得も得やすい。
しかしもう一人、候補者がいた。先に北条と和睦をしたと述べましたが、そのとき謙信のもとに、人質として北条氏康の七番目の息子が派遣されてきた。
三郎という人ですが、謙信は彼を非常にかわいがった。男色の相手だったという説もあります。そして三郎に、昔自分が使っていた名を与え「上杉景虎」と名乗らせた。そのため、実はこちらのほうが後継者の本命だったのではないかと見るグループもでてきた。
血の繋がった景勝か。それとも謙信のかつての名を与えられた景虎か。
謙信の真意をいくら考えても、亡くなってしまえば後の祭り。問題だったのは、そこで上杉家が真っぷたつに割れてしまったことです。結果として景勝と景虎は、一年間にわたって抗争を繰り広げ、その間に上杉の所領の多くが失われてしまうことに。
これこそが謙信の招いた「大きな失敗」と言えるのではないでしょうか。
※本稿は『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
『「失敗」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)
出版業界で続く「日本史」ブーム。書籍も数多く刊行され、今や書店の一角を占めるまでに。そのブームのきっかけの一つが、東京大学史料編纂所・本郷和人先生が手掛けた著書の数々なのは間違いない。今回その本郷先生が「日本史×失敗」をテーマにした新刊を刊行! 元寇の原因は完全に鎌倉幕府側にあった? 生涯のライバル謙信、信玄共に跡取り問題でしくじったのはなぜ? 光秀重用は信長の失敗だったと言える? あの時、氏康が秀吉に頭を下げられていたならば? 日本史を彩る英雄たちの「失敗」を検証しつつ、そこからの学び、もしくは「もし成功していたら」という“if"を展開。失敗の中にこそ、豊かな"学び"はある!