「一緒に事業をしないか」
百福は主原の仕事に信頼を寄せ、「一緒に事業をしないか」と持ちかけました。しかし、彼は「私は学もないし、とてもできひん」と断りました。
宇市の息子安浩は当時のことをよく覚えていて、「チキンラーメンができた時には、安藤さんがプリンスという自動車に乗って、三十食入り二ケースを届けてくれました。みんなで食べたら、おいしかった」となつかしそうに振り返ります。
一緒に仕事はできませんでしたが、のちにチキンラーメンの製法をめぐって特許侵害の訴訟が起きた時には、宇市が大阪地裁の法廷に立ち、チキンラーメンは間違いなく安藤百福の発明だと証言してくれたのです。
百福は、麺にあらかじめチキンスープの味をつけておいて、お湯をかければすぐに食べられる即席のラーメンを作ろうと考えていました。ところが小麦粉にスープを練り込んで麺を打とうとすると、麺がつながらず、ぼそぼそと切れてしまうのです。失敗した麺くずが、毎日毎日、山のように積み上げられ、仁子はその処理に困りましたが、栄養があるというのでブタの飼料として売ることができました。