好きな人に本当に近い席に座れたことがあって、その日の開幕前、なぜか私は急に悟りを開いた人みたいになり、よし、小さなアクションを一つだけやろう、と思った(恥ずかしいからぼかして書くけど、大したことではないです)。今までになく焦りもなくて、だからこそ本番でもできたんだけど、覚悟って決まるときは急に決まるんだなぁと思います。それまで焦っていたのはやっぱりなんにも「自分でやりたい」と心から選び取ったのじゃなかったから、つまり「伝える」そのものになりきれてなかったからなんだろうな。

 伝えるって自分が何をその人に渡したいか、それだけなので。相手がどうとか自分がどうなりたいかとかではなく(もちろん相手を困らせたくはないですけど、そういう最低限の話ではなくて、相手にどう思ってほしいかとかそんなことまでも期待したり予想するのは不可能という意味です)。だから心から自分がそれをしたいと思えたら、そのときだけまっすぐに「私は気持ちを伝えているんだ」って思えるのかもしれない。ファンとしての「伝える」は、相手が嫌な思いをしなければいいなという祈りや気遣いはあるけれど、結局いつも自分の中で完結させなくてはいけなくて、伝えたいのも私だし、伝えて満たされるのも私だから、私が私の「伝える」に納得がいっていないといけない。伝えて、その先に何か安堵を求めるのではなくて、伝えた時点でほっとしていたい。本当に自分はこうしたかったんだろうかと不安になってしまった時に、誰かに「大丈夫だよ」と言ってもらえるようなそんなものではないのだと思う。もちろん相手がそれを喜んでくれるかなんてわからないし、知りようがないから、その反応でほっとしたいなんて願いようがないし、自分で自分に「大丈夫だよ」と言える範囲でしか何もできない。だから、きっとそんな大袈裟に考えなくてもいいんじゃない!?ってことまで私はずっと考えてしまうのだろう。

 こういうのは多分、ファンレターもそうだし、好きでいること自体も同じ。好きでいることが相手にとってどうなのかなんてわからないから、好きでいることそのものが自分にとって幸せなことでなければならない。それはすごく、独特な世界だと思う。誇り高く好きじゃないといけない。たぶんそれは、自分のことを好きでいなくちゃいけないし、その人のことを好きな気持ちも、好きでいなくちゃいけない。まっすぐに生きていくしかないってことだ。