好きなものができると、人生は豊かになる、幸福になると言われるとき、私は少しだけ苦しくなる。好きであればあるほど、私はたまにとても悲しくなり、つらくなり、そしてそのたびに私はその「好き」が、自分のためだけにある気がして、誰かのための気持ちとして完成していない気がして、いたたまれなくなる。好きな存在にとって少しでも、光としてある気持ちであってほしいのに、私は、どうして悲しくなるんだろう?
 私は、宝塚が好きです。舞台に立つ人たちが好き。その好きという気持ちが、彼女たちにとって応援として届けばいいなと思っている。そして、同時に無数のスパンコールが見せてくれる夢の中にでも、悲しみもある、不安もある、そのことを最近はおかしいと思わなくなりました。未来に向かっていく人の、未来の不確かさをその人と共に見つめたいって思っている。だから、そこにある不安は、痛みは、未来を見ることだって今は思います。好きだからこそある痛みを、好きの未熟さじゃなくて鮮やかさとして書いてみたい。これはそんな連載です。

 そりゃ好きな人に好きですということが伝わればいいと思いながら、一番よく伝わる「その人が目の前にいる時間」がなによりも困難だし、なんかちょっと戸惑う。わ、わ、わ、と嬉しさの中で、自分はここに来てここまで来て、何がしたかったんだ?とも思う。

イラスト◎北澤平祐

 最近宝塚では客席降り(名前の通り客席の方に出演者が降りてきて通路とかで踊る演出)が久しぶりに解禁されて、それは華やかですてきなのだけれど、すごく好きな人が目の前に来た時に自分がなんにもできなくなるのが本当に嫌で、というかどうしたいのか本当にわからなくなってしまうので、反省会が脳内でかならずっていっていいほど開催されている。近くの出演者に手を振っている人を見ていると、すごい!私もそうなりたい!と思うけれど、思ったあとで必ず、そうなりたいのだろうか……そうなりたかったのだろうか……本当に……?その人のことは大好きだけど私はどうなりたいのだろう、と考え始めてしまう。なんもわからないや……手を振ろうとするとブレーキがかかり、それは多分恥ずかしいとかだけではなくて、自分が本当にやりたいことなのかはっきりわかってないからなのかもしれない。見ていたいんです。だって舞台が好きだから。ただ見ていたいんですけど、近いから、一方通行的なものがなくなるから、突然のことにどうにか何かしなくちゃ!と思って、多分、その「どうにか何か」が考えたことのないことすぎて、頭が真っ白になるのでしょう。ちゃんと考えたら「私も手を振りたい!」と結論づけられるのかもしれない。でも考える時間もないままそこに座るから、わからなくなってしまうのだろうな。

 私は自分の心が弱いことを知っているので、手を振って気づいてもらえなかったら自分は自分が落ち込むのを止められないな、とわかっている。そしてそういう自分が心底嫌いで、本当にめんどくさいやつと思うので、自分がやりたいからやるんだ、とはっきりとわかることしかしたくなくて、多分その覚悟を決めないとなんにもできない。人がやっているから私もやる、くらいだと多分なんにも覚悟がかたまってないので、そんなのは私の心の弱さには合わない……。私は人を応援したり、人を好きになったりするにはあまりにも心が弱いし、そういう弱い自分に腹が立つので、全部全部先回りして自分が落ち込む可能性を踏み潰して、自分史上最高メンタル強い!になりたかったのだった(こんなこと書いてますけど、ちゃんと理想通りになれたことは一度もないですしいつも最弱です)。