不透明さがない

ドレッシングにしろ、トマトソースにしろシンプルで、少ない手間で作れるからありがたいレシピだ。でも、シンプルなものこそ、素材が良くないと美味しくない、ということがある。

私の場合、金に糸目をつけないで材料が買えるほど、生活に余裕はない。オリーブ油など輸入ものになればなおのこと、選びだしたら大変な値段になってしまう。それでも、たとえ高価なものを使えなくても、シンプルなものを作ることが、今の時代には必要かもしれない。叔母と同じく、物を多く置かないソフィーのキッチンを見て思った。

ここでは、自分がなにを食べているかがよくわかり、不透明さがない。

添加物を加えて無理に乳化させてあるものは、扱いやすく舌に心地よいけれど、なにが入っているかもよくわからないし、自分がなにを食べているかも、あまり考えなくなってしまう。

「ドレッシング」というくくりではなく、オイル、ビネガー、スパイスを、個々に感じつつ、舌の上で初めて調和させて楽しむと、素材の味にも結果、敏感になってくる。

週末に時間をかけて作るような手のこんだフランス家庭料理もいくつか教わったけれど、結局、日本に帰ってきてから一番作っているのは、簡単にできる四角いバゲットと、ドレッシングと、トマトソースだ。

どれも彼女たちが使っているほど良い素材は使っていないけど、同じ値段のトマト缶でも、こっちは美味しいとか不味いとか、味に少し敏感になってきたように感じる。

※本稿は、『パリのキッチンで四角いバゲットを焼きながら』(幻冬舎文庫)の一部を再編集したものです。


パリのキッチンで四角いバゲットを焼きながら』(著:中島たい子/幻冬舎文庫)

長年フランスを敬遠していた私だったが、40代半ばを過ぎて、パリ郊外に住む叔母ロズリーヌの家に居候することに。毛玉のついたセーターでもおしゃれで、週に一度の掃除でも居心地のいい部屋、手間をかけないのに美味しい料理……。彼女は決して無理をしない。いつだって自由だ。パリのキッチンで叔母と過ごして気づいたことを綴ったエッセイ。