「頼れる実家」を持てない人たち

パートナーに保護された日の翌日、互いに休日だったため、車で2時間ほどの場所にドライブに出かけた。少しでも気分転換になればいい。春のきれいな景色を私に見せたい。そんな彼の思いやりが嬉しかった。桜の蕾が綻びはじめ、菜の花が満開で、小雨が降る海の静けさに心が凪いだ。きれいなものを「きれいだ」と思う感覚は、ちゃんと私の中に残っている。それなのに、なぜ唐突にすべてを投げ出してしまいたくなるのだろう。

「辛いことを過去のせいにするな」と言う人がいる。しかし、実際に過去に被った被害が今現在の私の生活を侵食し、せっかく恵まれた幸福にさえ影を落とす。それらすべてを「自己責任」と言われたら、私はもう言葉を持てない。這い上がりたい、立ち直りたい、と誰よりも当事者が思っている。だが、普通の生い立ちの人が持っている基盤を持てないがゆえに、立て直しそのものが困難なケースは多い。

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心身のバランスを崩した時、出産時、離婚時、何らかのトラブルに巻き込まれた時、どのような状況においても、サバイバーには「実家に帰る」選択肢がない。両親からの経済的援助も、家事サポートなどの実質的な手助けも望めない。それどころか、人によっては実家に仕送りをしている場合もある。親が子どもにとって支えになる家庭ばかりではなく、親子関係が逆転し、子が親の生活を支えているケースも少なくない。小説でいえば、『52ヘルツのクジラたち』に登場する主人公の状況がそれに当てはまる。

支援者や知人から手厚い援助を受けられる人間はほんの一握りで、どの当事者もほぼ例外なく窮地からの自力脱出を求められる。虐待被害者、貧困家庭出身者、障害者、ジェンダーマイノリティ、ミックスルーツ。あらゆるハンデは「抱えていくもの」で、差別や偏見は「仕方のないもの」。そんな世間の風潮が、酷く息苦しい。