(写真提供:Photo AC)
『おそ松くん』『天才バカボン』など、「ギャグ漫画」のジャンルを確立した天才漫画家・赤塚不二夫先生。晩年期の赤塚先生を密着取材していたのは、当時新聞社の編集記者だったジャーナリストの山口孝さんです。山口さんは、先生から直接「評伝」の執筆を勧められ、長い時間をかけ『赤塚不二夫 伝 天才バカボンと三人の母』を書き上げました。「最後の赤塚番」が語った、知られざる「赤塚不二夫伝」を一部ご紹介します。

ひとり娘、りえ子が生まれてから

65年、30歳の節目を迎える年は、赤塚にとって大きな転機ともなった。

1月には『おそ松くん』で『第10回小学館漫画賞』の受賞が決まった。

酒を覚えたのは、このころからだ。

3月11日、ひとり娘のりえ子が生まれた。

前日、陣痛がきた登茂子はひとりで新宿の病院に入院、1晩かけてりえ子を生んだ。

りえ子の著書『バカボンのパパよりバカなパパ』によれば、「わたしが生まれる前日、パパは帰ってこなかった。この頃、パパは人気漫画家の仲間入りを果たし忙しかったとはいえ、もう予定日を大幅に過ぎている。ママはわたしを生む前、二度も流産していたというのに……」。

赤塚はりえ子が生まれてしばらくして病院に駆け付け、わが子を抱いた。

出産を機に、登茂子はアシスタントを辞めた。

4月には新宿区淀橋の市川ビルでフジオ・プロダクションを立ち上げる。

9月、結婚5年目、30歳で、中野区弥生町に新居を構えた。

苦労した両親のために、親孝行のために赤塚が建てた家だった。

木造2階建ての一軒家で、赤塚の両親、赤塚夫妻、6カ月になるりえ子と5人暮らしだった。

1階のリビングルームには、オレンジとイエローのストライプの壁紙が貼られていた。登茂子の趣味で、内装業者からは「本当にこの色でいいんですか?」と何度も念を押されたほど、思い切った色彩だったという。

2階は和室が2部屋、奥に12畳のフローリングの部屋があり、そこが赤塚が初めて持った書斎だった。

この書斎は、ジャズやロックなどの音楽や、ゴーゴーダンスなどが好きな登茂子と、にぎやかなことが好きな赤塚が、友人たちを呼んでのホームパーティーの会場にもなった。

登茂子は、新宿や赤坂、六本木のディスコにもよく通っていたそうだ。