(写真提供:Photo AC)

『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマには多くの貴族が登場しますが、天皇を支えた貴族のなかでも大臣ら”トップクラス”の層を「公卿」と呼びました。美川圭・立命館大学特任教授によれば、藤原道長の頃に定まった「公卿の会議を通じて国政の方針を決める」という政治のあり方は、南北朝時代まで続いたそう。その実態に迫った先生の著書『公卿会議―論戦する宮廷貴族たち』より一部を紹介します。

伊周・隆家の配流決定

『光る君へ』でも描かれたが、長徳2年(996)3月下旬、天皇の母東三条院詮子がにわかに重病となり、女院の寝殿板敷の下から呪詛のまじもの(人形のようなもの)が掘り出された。

4月1日には、臣下が私的に行うことを禁止されていた大元帥法(たいげんのほう)を伊周らが修したという報告があった。これは道長調伏(呪い殺すこと)のためという。

ついに4月24日、伊周が大宰権帥(だざいごんのそち)、隆家は出雲権守(いずものごんのかみ)として配流されることが、天皇御前の除目の座で決した。

理由は、花山法皇を射たこと、女院を呪詛したこと、私的に大元帥法を修したことの三つであった。