中宮定子の出家

中宮定子も2月25日に内裏から退出し、さらに3月4日天皇の命令で二条北宮に移った。このとき定子に従う公卿はほとんどいなかった。

『公卿会議―論戦する宮廷貴族たち』(著:美川圭/中公新書)

ところが、定子はその後も内裏に参入していたらしい。定子はこの年の12月16日に一条天皇の第一子脩子を生んでいるからだと倉本一宏は推定する。

こうしたこともあるのか、伊周、隆家は二条北宮の定子のもとに匿われ、配所に下ろうとしなかった。

5月1日、検非違使による二条北宮の大規模な捜索が、天皇の命令で行われた。定子が車に乗せられたうえ、寝殿の夜大殿(よるのおとど)の戸が破られ、組入天井や板敷がはがされた。しかし、伊周はみつからず、隆家だけが捕らわれた。定子も、ついにこの日出家した。