帰国した赤松さんは労働省婦人少年局長となり、職場での男女平等法の実現に取り組むことに。しかし、すんなりとは進みません。男女の陣取り合戦だけではなかったんですね。省の内部でも足並みが揃わないし、経営者側からも労働者側からも、さまざまな反発や批判が浴びせられた。

そんな厳しい状況のなかでも、85年、ついに「男女雇用機会均等法」が衆院本会議で成立しました。ただし、違反した場合の罰則や禁止条項は少なく、ほとんどが「努力義務」。そのため、「生ぬるい法案ならいらない」と反対運動に転じる女性団体もあり、赤松さんは相当糾弾もされたのです。

でも、赤松さんは、「小さく産んで大きく育てる」をモットーに、とにかく法律を一日も早く作ることを最優先された。完璧を目指したら、機を逸してしまう恐れがあったからです。そのために根回しをし、なんとか落としどころを見つけたのでしょう。いま振り返っても、この判断はさすがだと思います。

新たな法律を作るというのは、本当に大変なことです。その時々の政局によっても左右されますし、さまざまな思惑が絡み合う。そんななか風当たりの強い法案を成立まで持っていったのですから、すばらしい功績だと思います。もちろん法案が成立したのは、赤松さんのみならず、優秀な女性官僚たちのパワーがあってのことですね。

その後、日本では2人目の女性大使として駐ウルグアイ大使に、細川連立内閣では文部大臣を務めました。また、常々「女性議員が少ない国は女性が損をする」と嘆き、政治家を目指す女性を資金面で応援するネットワーク「WIN WIN」を立ち上げるなど、女性の地位向上のために精力的に活動を続けました。

赤松さんは、日本の国際的なポジションも念頭に置きながら、国のために立ち働き、ずっと女性の地位向上のために走り続けてきた──。その実績に頭が下がります。

赤松良子さん略歴
●赤松良子さん略歴