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1969年、兄弟フォークデュオ「ビリー・バンバン」としてデビューした、菅原孝さんと菅原進さん。「白いブランコ」などが大ヒットし一躍フォーク界を代表する存在に。一度解散するも、再結成後はライブ公演や楽曲提供など息の長い活躍を続けている。いくつかの危機を乗り越えてきた2人の軌跡を、弟の進さんが語る(構成=村瀬素子 撮影=宮崎貢司)
母の歌声、そして、もう一人の兄の存在
――デビューして54年。兄弟でこんなに長く歌い続けられるとは思いませんでしたね。
ステージを観てくださった方によく言われるんです、2人のトークが掛け合い漫才みたいでおもしろいと。兄の孝がしゃべりまくるから、僕は話をふられたら返すだけですけれど。兄が「なんだよ、まったく! お前の親の顔が見たいよ」と言えば、僕が「同じ親だろ!」ってね。これが鉄板ネタです。(笑)
僕らが音楽の道に進んだのは、母の影響が大きいですね。母は女学校時代に歌のコンクールで優勝したこともあるほどきれいな声の持ち主で、いつも台所で歌を口ずさんでいました。父は都庁に勤める役人で、こちらは音痴でねぇ(笑)。ありがたいことに、僕らは母に似たんです。
じつは、うちは3人きょうだい。孝の上にも兄がいました(享年53)。長兄は体が弱くて小さかったため、同級生にいじめられてね。それを次兄の孝が助けに行くんです。僕は「お兄さん、これ使いなよ」と棒を渡したりして。幼いながらも協力して長兄を守っていました。
そういう事情で、孝が長男の役割を務めていた感じです。孝は真面目で勉強もできる優等生。一方、末っ子の僕はのびのびと育ち、木登りしたり走り回ったり。幼い頃、きょうだいでピアノを習ったのですが、僕は手に土がついたまま稽古に行き、先生宅のピアノの鍵盤を黒くして怒られたのを覚えています。
中学生になると、僕はアメリカンポップスにハマりました。デル・シャノンの「悲しき街角」とか、ポール・アンカ、ニール・セダカなど……。母に小遣いをもらっては吉祥寺のレコード店へ。友だちとバンドを組み、我流で作曲もして、将来は音楽の道に進もうと決めていました。高校2年のとき、父の友人の伝手で、作曲家の浜口庫之助先生の門下生に。兄と一緒に先生の教室で歌と作曲を学んだのです。
その後、孝は慶應義塾大学へ進み、僕は青山学院大学へ。僕は友人とバンドを組んで没頭、アマチュアながらコンサートは超満員になるほど人気がありました。1967年にギターの僕と、コントラバスの孝、パーカッションのムッシュ中野(せんだみつおさん)の3人のバンドに。
孝はプロになるつもりはなかったようですが、デビューの話が持ち上がったとき、浜口先生が「兄弟2人」で組んだほうがいいと。声が似ているので絶妙なハーモニーが生まれることを見抜いてくださったんです。