筆者の関容子さん(左)と

麿さんが唐十郎のもとを離れ、「大駱駝艦」を旗挙げするのは29歳の時。でも、その前年に映画『闇の中の魑魅魍魎』の絵師・金蔵役で主演したことが世に広く名を知られるきっかけになる。

――『話の特集』の矢崎泰久さんが、日活から独立した中平康監督に僕を推薦してくれて決まったんですね。岡田英次、江守徹、加賀まりこさんも出て、あとから土方巽さんも出ましたね。この映画はかなり話題になって、カンヌ国際映画祭にも参加しましたからね。

その後、若い連中がうちに集まってくるようになって。狭いところにいつも十人くらいが、夏だとパンツ一丁でゴロゴロしてる。

ある日ふと、マーラーの曲をかけたんです。そうしたら連中の顔がなんだか急に高貴に見えてきて(笑)。ググッと身体が浮かび上がるような、これでいけるんだな、というよこしまな発想が浮かんだ。これが僕の「天賦典式」の由来なんです。

美術界のアンデパンダン(アカデミーに対抗して開かれる無審査・無賞の展覧会)の、ゴミ持って来てそこに置けば作品だという、その発想に似てますね。以来、半世紀以上にわたって、今日までずっと来ています。

途中、55の時に僕は胃がんをやってます。胃の5分の4を切った。土方さんは57歳でがんで亡くなってますから、えー、俺は師匠より早く死ぬのかよ、嫌だなぁ、と思ってたら生き返って、あれで覚悟を決めたみたいな気がしますね。もう、意地でもやったるぞ、みたいな。

ですからこれが第3の転機かもしれません。身体が財産だということね。身体があって、突っ立ってればそれでいいんだよ、って師匠に言われて、本当にそうしてたら、いつまで突っ立ってんだ、って言われましたけど。(笑)

 

年内はこのあと8月に長野の白馬村、台北、神戸、九月にブリュッセルと巡り、今年の締めは、11月の世田谷パブリックシアターとか。麿さん、素敵なステージを!!