「中学に入ってからはむしろ学校にいるほうが楽しくて。登校拒否じゃなくて下校拒否」(撮影:岡本隆史)
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第33回は舞踏家・俳優の麿赤兒さん。中学生1年生の時に演劇部を立ち上げ、その後も演劇を続けてきた麿さん。純粋に演劇に惹かれたというよりは、虚構の世界への逃避だったと振り返ります――。

登校拒否じゃなく下校拒否

舞踏家にして俳優。それも舞踏集団・大駱駝艦(だいらくだかん)主宰という、何かおどろおどろしい肩書きの前衛芸術家。

麿さんの掲げる「天賦典式(てんぷてんしき)」という様式は、この世に生まれ入ったことこそ大いなる才能であり、忘れ去られた身振り手振りを採集して作品を生み出すこと、だという。

麿さんの舞踏を観ていると、その肉体という文体で描かれるさまざまな形から、想像力がどこまでも広がっていって、いつか哀しみに似た感覚に捉えられ、その哀しみがいつしか美しさに変わる。それが麿さんの舞踏とわかる。

一見、強面の前衛芸術家だが、問いかけに気さくに答えてくださるのは予想通りだった。

まずはその生い立ちから。

――父は戦時中、僕が二つの時にテニアン島という、サイパンのちょっと南の島で戦死しました。それは悲惨なものだったらしいですよ。父は海軍参謀でしたし、もう駄目となって自決したとも言われています。

母はそれを知って精神を病みましてね。僕はまず父方の祖母の家に行ったけど、その後は奈良県三輪山の叔父夫妻の世話になって。可愛がってもらいましたけど、他人の家ですからね。

中学に入ってからはむしろ学校にいるほうが楽しくて。登校拒否じゃなくて下校拒否。演劇部を作ってね。なんだかみんな同じような境遇の者が集って、カウンセリングクラブみたいになって。喋ってるうちにどんどん解放されていきました。

ちなみに、中学1年にして部長。顔はもうそのころからヒネまくってましたから、皆から信用されましてね。学校には結構立派な図書館があって、チェーホフとかイプセンとか揃ってましたから、そこで戯曲を、よくわからないながら読んでいました。