麿さんは実はその前から唐十郎の名を知っていて、この風変わりな芸名「麿赤兒」もその影響からだとか。
――まぁそうですね。奈良の三輪山の麓で育ったんで、そこらへんの石碑にある柿本人麻呂の「まろ」や、山部赤人の「赤」が意識の奥底にあったんですが、唐さんの芝居のチラシを見ると、涙十兵衛(ルイ・ジュヴェ)とか、骸馬二(がいうまじ)とか、面白い芸名がいっぱいあったんで、その方式に則ったわけです。
それでしばらくすると、いつの間にか唐と李礼仙(のちに麗仙)の西荻窪の四畳半のアパートに転がりこんでいてね。当時僕は22歳。唐さんは三つ歳上かな。
李さんの作る朝めしを平然と平らげていたら、「いつまでいるつもりなの? 麿ももう大人なんだから独立しなくちゃ」って李さんから言われてね。(笑)