鎮守府、要港部の記号
独立して作戦を行いうる陸軍の最小の戦略単位である師団は歩兵や砲兵、輜重兵などいくつかの旅団や連隊を擁し、万単位の兵員を抱えて各地方の主要都市に置かれている。
明治21年までは「鎮台」(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)と呼ばれ、第一から第六師団まではその後身だ。前述の第三師団も最初は名古屋鎮台であった。
日清・日露の両戦争を経て軍も大型化されて常設師団は内地に近衛師団と18個師団、朝鮮に第十九・二十の2個師団まで増えた。
しかし第一次世界大戦後の世界的な軍縮気運に加え、関東大震災の膨大な復興費を捻出する必要もあって「宇垣軍縮」が行われ、高田(現新潟県上越市)や豊橋など歴史の浅い師団から廃止される。
久留米の第十八師団もこの時に廃止されたが、第十二師団司令部の所在地を小倉市(現北九州市)から久留米市に移したことで影響を最小にとどめたようだ。政治的な解決だろう。師団がなくなった都市の地元経済への打撃は大きかった。
一方で海軍の鎮守府は横須賀、呉、佐世保、舞鶴の4ヵ所に置かれたが、その記号は師団司令部の黒星の代わりに海軍のシンボルである錨(いかり)を置き、これを二重丸で囲んだものである。
このうち最も新しい舞鶴鎮守府(明治34年開庁)はワシントン軍縮条約の影響で大正12年(1923)に「要港部」へ格下げとなった(昭和14年に鎮守府として復活)。この要港部の記号は一重丸に錨である。
ただし鎮守府や要港部周辺はすべて要塞区域であったため地形図は一般に販売されず、たとえこれらの記号を知っていたとしても、それらが地形図上に描かれているのを見た人は政府や軍の一部関係者に限られた。