『徒然草』より…

『徒然草』の第百八十八段に、つぎのようなことを言ってあります。いまこれを拙著『謹訳徒然草』で読んでみましょうか。

「人がたくさんいるところで、ある者が、『ますほの薄(すすき)、まそほの薄などと言うことがある。これについては、渡部(わたのべ)の聖が、その謂われを知っている』と語ったのを、登蓮(とうれん)法師という、その場におった人が、聞いて、ちょうどその時、雨が降っていたゆえ、『こちらに蓑笠(みのかさ)がありましょうか。あったら貸して下され。その薄の伝授を受けるために、渡部の聖のところへ尋ねて行きましょうほどに』と言った。

その事を聞いて、『なんとせっかちなお人じゃ、雨が止(や)んでから行かれたらよさそうなもの』と、人が言ったところ、『とんでもない事を仰せになるものじゃ、人の命の儚(はかな)さは、雨の晴れ間を待つまで生きていられるかどうか、知れぬものよ。もしその前に自分も死に、聖も亡くなられでもしたら、いったい誰にそのことを尋ね聞くことができようぞや』と言い言い、走って出ていった。

そうして、ついには無事このことを聖に習い申したということを言い伝えているのは、まことに度外(どはず)れて奇特(きどく)なことと思ったことだ。『敏(と)きときは則(すなは)ち功(こう)あり(敏速であれば則ち成功する)』と『論語』という書物にも出てござるそうな……」ということが書かれています。

「ますほの薄・まそほの薄」というのは、どちらも同じ語の言い訛りにすぎないのですが、いずれにしても薄の穂先の赤みを帯びた状態を言う、和歌のほうで使う言葉です。

そういう歌の道の知識というようなことを知りたいと思った登蓮法師が、万事をなげうってそのことを聞きに走ったという話で、そのくらいつまり人間の命などはいつ突然に果てるともしれないものだから、知りたいことがあったら、余事をなげうってでも、即座に知る努力をしたほうがいい、ということを教えている一条です。

この「まそほの薄」談義を、趣味への希求と置き換えても、この教訓は十分に意味を持っていることだろうと思います。

なんといっても、人生は一度きりです。しかもその人生が、いつ突然終わるか、そんなことは予測できないことにほかなりませんね。

それゆえに、この取り返しのつかない時間を無駄にせずに、やりたい趣味があるならば、もう余計なことをしていないで、すぐにでも着手したほうがいいということです。

※本稿は『結局、人生最後に残る趣味は何か』(草思社)の一部を再編集したものです。

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結局、人生最後に残る趣味は何か』(草思社)

「趣味は何ですか?」と聞かれて、堂々と答えられる趣味がありますか?
 もしかすると「今は忙しいけれど、(将来)時間ができたらやりたい趣味がある」、という方も多いのではないでしょうか。
このように何となく「趣味」というのは、時間やお金にじゅうぶんに余裕がないとなかなか真剣に取り組めないもの…と思われがちですが、本書ではまったく逆の提案をします。
長年の実体験に基づく内容は、大いに刺激となり、参考になることでしょう。
また、趣味を通じて、自分らしい生き方を考え直すヒントにもなります。