千里の変化とその後

千里はこれまで以上に手術野を見るようになった。看護師は男性の外科医たちに比べて背が低いので足台に乗って器械出しをすることが多い。でもこれでは不十分だ。外科医の指の先に何があるか、血管なのか、結合織なのか、切るのか、縛るのか、見極めようとした。

千里は胃がん全摘出の手術で、外回りの看護師に「足台、もう一つください」とお願いした。2段の足台に乗って術野を見る。だが、胃と食道の境目あたりになると深くてよく見えない。

「もう一つください。それから、下半身、不潔になるので、滅菌シートをください!」

外回りから滅菌シートを受け取ると、腰に一周巻いてコッヘル鉗子で止めた。腰巻きである。

千里は3段の足台に乗った。外科医が今何を欲しがっているのか、千里は言われる前に判断しようとした。

そして千里は外科医の手も今まで以上に見るようにした。針を持針器で挟み、糸を針に通して外科医に渡す。するとまれに外科医は、針を持針器で持ち直すことがある。針と持針器は90度の角度で持つのが標準だが、深くて縫いにくい場所では外科医は針を120度に持ち直したりする。

今までは器械を渡して終わりだった。だが、千里は外科医が針の角度を変えると、続けて出す針と持針器も同じ角度にして出した。外科医がそのまま縫ってくれれば(よし!)と思った。

外科医が深部を糸で縛るときも、千里は60センチの糸を出すか、75センチの糸を出すか咄嗟に判断した。長過ぎても、短過ぎても深部結紮(けっさつ)はうまくいかない。うまく結べないと大量出血につながることもある。外科医の縛り方を見ているうちに、ちょうどいい長さの糸を一発で選べるようになった。

3段の足台に乗り、千里は喰らいつくように術野を見て、外科医の手の先を見た。器械出しは見ることがすべてだと改めて悟った。

このあと、結局、千里は遥香先輩と一緒に仕事をすることはなかった。翌年、先輩は市立循環器病センターに異動していった。新しいチャレンジをしようと決めたのか。千里は、あの先輩ならそういう生き方をするだろうなと思った。

 

※本稿は、『看護師の正体-医師に怒り、患者に尽くし、同僚と張り合う』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。


看護師の正体-医師に怒り、患者に尽くし、同僚と張り合う』(著:松永正訓/中央公論新社)

10刷となった『開業医の正体』、待望の姉妹編。

一人の看護師が奮闘する日々を追いかけ、看護師のリアルと本音を包み隠さず明かします。