本屋がなくなれば
少年時代、私が暮らした商店街には貸本屋しかなかった。もっと町の中心へ行けば本屋が2軒あったが、新しい本はよほどの時でないと買い与えてもらえなかった。たいがい正月だった。姉たちは本に付いた付録を嬉しそうに開いたりしていた。
本屋に馴染むようになったのは、文章を書くことを生業にしてからである。
上京し、大学の野球部の寮へ、母が文学全集、詩歌集を送ってきた時、先輩たちが勝手に私物の段ボールを開けてチェックした。
「おまえ本当にこのモンガクを読むのか?」
――モンガクじゃなくブンガクですが……。
漱石を読める部員は一人もいなかった。
詩集の一節をなんとはなしに諳(そら)んじると、のちにジャイアンツにドラフト一位で入団した同級生のY山に、「おまえどこか身体が悪いのか?」と本気で訊かれた。
今、日本で書店の数はおそろしく減っているが、失くなることはおそらくあるまい。
八百屋がなくなれば、鍋料理ができなくなるように、本屋がなくなれば、恋愛もどこか淋しいものになるし、人生で何が大切かもわからなくなるだろう。