「遊郭設置」の陳情

関ヶ原の戦いが終わって江戸に武家政権が作られるようになると、江戸の町の整備は更に加速して進められます。そして武家屋敷や寺社を設けるために、遊女屋などはしばしば移転を強要されました。

そのため、遊女屋の主たちは相談し、遊郭の設置を幕府に求めます。陳情は数度に及びましたが、なかなか受理されませんでした。

しかし、ついに慶長17年(1612年)、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門(甚内とも。元は駿府の娼家の主人)を代表として陳情した際に、願いが受理されたのです。

そして受理から5年、大坂の陣で豊臣氏が滅びた後の元和3年(1617年)に、甚右衛門を惣名主として江戸初の遊廓「葭原」の設置が許可されました。

その際、幕府は、江戸市中には遊女屋を他に一切置かないこと、遊女屋の建物や遊女の衣服は華美でないものとすることを申し渡しました。

つまり、葭原=吉原以外での遊女の活動は違法である、ということです。