2歳で両親が離婚。苦難の人生が始まる

私は昭和21(1946)年の生まれ。生家の高尾家は香川県でも5本の指に入る宮大工の棟梁の家です。父と祖父は金刀比羅宮の歴史にも名を刻み、10人ほどの弟子を抱えていました。

父は腕がいいばかりか、頭もよくおまけにハンサム。そうなれば女性が放っておくはずもありません。心の行き違いがあったのでしょうか、両親は私が2歳のとき離婚することになりました。

そこから私の苦労が始まります。母は私を連れ、やはり連れ子のいる農家、川原家へ後妻に入りました。川原家には子どもが3人いて、再婚後、母は5人の子を出産。継父は自分の子ではない私をとても大切にしてくれましたが、血筋の異なるなかで苦労したこともあります。

また、川原の家は表向き広い田畑と多くの屋敷を持っていましたが、継父は酒とギャンブルに溺れていて、内情は借金だらけの火の車。田畑は農協の抵当に入ってしまいました。

母との関係も良好とはいえませんでした。母はあまり家事や育児が得手ではなく、自分の不甲斐なさからか、私にきつくあたりました。今思えば、てきぱきと体が動く娘に、引け目を感じていたのかもしれません。

そのなかで私は小学生の頃から家事をし、弟妹たちの面倒をみながら過ごしました。農業も手伝っていたので、農繁期には学校に通えないことがほとんどでした。家にとって私は貴重な働き手だったので、継父は私が勉強をするのを嫌いました。勉強すれば、大人になったとき家を出ていってしまうと恐れたのでしょう。

小学校高学年のある日、赤子をおぶって、きょうだいの世話をしながら牛小屋で勉強していたときのこと。私は登校したとき困らないよう、家でも欠かさず勉強していたのですが、同級生が給食のパンを届けてくれたのです。

私は、そんな自分の姿を見られるのが恥ずかしく、小屋の隅に隠れてしまいました。いまだに悲しい思い出として心に残り続けています。

中学校卒業後も家の農作業を手伝いながら、アルバイトをしたり、漬け物を作って直売所で売ったりして家計を助けて働きました。

その後、21歳で結婚。相手は川原家の長男です。当時は、継父と先妻の子どもたちは母屋に、私と下の弟妹は別棟に住んでいました。継父が私を長男の嫁にしようとしたのは、働き手としてずっと川原の家に置いておくためです。

私の意見も聞かず、勝手に人生を決められ、すべてが嫌になり、何度も家出をして抵抗しましたが、結局、諦めざるをえませんでした。周囲の人にとって望ましいことが私の生きる道だと、自分に言い聞かせて……。

それは10歳の頃の経験から得た考えです。香川県はため池が多く、幼い頃はみんな大きな池で泳ぎます。ある日、近所の子どもたちと水遊びをしていたとき、一人だけおやつを持ってきていない私は、池に石を投げながら広がる波紋を見て思ったのです。

いいことをしても、悪いことをしても輪は広がる。だったら、自分がいいと思ったことをしていきたい、周囲の人が幸せであれば、自分も幸せになれる、と。

年齢にしては大人びた考え方だと思われるかもしれません。しかし、そう考えないと生きていけないほど厳しい環境のなかにいたのです。