演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が訊く。第40回は歌舞伎役者、俳優の中村獅童さん。親の後ろ盾がない中それでも歌舞伎役者になりたいと、三階さんと呼ばれる端役からスタートしたそうで――。(撮影:岡本隆史)
「この人いまに天下取るからね」
1981年、歌舞伎座『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』「御殿」で、十七代目(中村)勘三郎の豆腐買おむらに手を引かれ、8歳の獅童さんが可愛らしい女童で登場して場内を沸かせた初舞台をよく憶えている。
当時先代の勘三郎はかなりのお年だったのに、「将来、獅童の子供が初舞台の折は、あたくしがこうしてまた、その子の手を引いて出て参ります」と言って大受けだった。
その初舞台から2年後、『春日局』の竹千代役で才能を発揮、松竹社長賞を受けるが、変声期からは役がなくなって、いつの間にか歌舞伎界から姿を消していた。
そして獅童さんがその名を世間に轟かせたのは、2002年から03年にかけて。数多のオーディションの末に勝ち取った映画『ピンポン』のドラゴン役と、十八代目勘三郎の抜擢による平成中村座での試演会『義経千本桜』「四ノ切」の狐忠信で注目を集めた結果だった。
でも、近ごろのように座頭として責任興行を任されるまでになるには、相当な苦難の連続があったはず。
――父の初代獅童が十代で歌舞伎役者を辞めてしまいましたからね。舞台稽古の時に、父は弟たち(中村錦之助=のちの萬屋錦之介と中村賀津雄=のちの嘉葎雄)がひどく叱られるのをかばって、大幹部さんに鬘投げつけて花道からそのまま家へ帰っちゃった。
歌舞伎役者にとって、後ろ盾になってくれる親がいないのは致命的です。僕がまたどうしても歌舞伎役者になりたいと言ったら、将来、芯の役は無理ですからね、そうなりたかったら自分で名前を売ってください、と会社から念を押されて、《三階》に。
母親が鏡台とか座布団とか重い物を全部運んで、端役からスタートしたんです。

1981年、歌舞伎座での初舞台『妹背山婦女庭訓』「三笠山御殿」で豆腐買娘おひろを演じた8歳の獅童さん(写真提供:松竹株式会社)