渋沢栄一の原動力

渋沢も夢があったからこそ、多くの事業を興し、そして、夢を次世代に伝えたかったからこそ、教育に力を入れたのではないかと信じます。渋沢は大変な篤志家でもあり寄付や慈善活動にも積極的でした。皆さんがよく知る話として、恋愛体質で多くの子どもを残した……という艶聞もありますが、それも含めて、人を愛する気持ち、人を思う気持ちが凡人よりもはるかに強かったのではないかと感じます。自分を訪ねてきた人全てと面会して、話をしたという逸話もあるほどです。

また、現代は「革命前夜」だと先ほど書きましたが、実は江戸時代、渋沢も尊王攘夷運動に傾倒し、開国に反対して革命を起そうとしたことがあります。実際にはその計画は中止されましたが、革命を夢見る情熱も、また渋沢の原動力であったのではないかと思います。

だとしたら革命を起せない代わりに、この本を書く事が自分にできる精一杯だったのではないかと思います。え? 小さすぎる? 申し訳ない。でも、渋沢はこうも言っています。

「世の中には随分自分の力を過信して非望を起こす人もあるが、あまり進むことばかり知って、分を守ることを知らぬと、とんだ問違いを惹き起こすことがある。私は『蟹は甲羅に似せて穴を掘る』という主義で、渋沢の分を守るということを心掛けている」

これを理由に渋沢栄一は大蔵大臣のオファーを断ったそうです。ますます小さな話ですが、三浦は三浦の分を守り、文筆を続けていければと思います。

拙著との出会いが、読者の皆様にとって、小さな三浦とではなく、偉大なる渋沢栄一との出会いと会話のきっかけになりましたら幸いです。