今になって、やっと心のしこりが消えた
優しい闇の中で、母親の体温と途切れることない心音が世界のすべてだったのに、いきなり、寒々しい蛍光灯の下に引きずり出される。母親の心音のない世界は、大人にしてみれば、無音室にいきなり閉じ込められたようなものだ。そんな不安のどん底で、たったひとりで彼は、人生最初の一晩を過ごしたのである。
しばらくの間、あの晩の泣き声を思い出すたびに、私は、涙がこぼれた。母親失格だと思えて。
息子を3人持つ私の叔母は、「泣かせてやらなきゃ。赤ちゃんは、しっかり泣かせてやらないと、肺が育たないというわよ」と笑い飛ばしてくれた。「胸板の厚い、いい男になるって」
今や、息子は胸囲100センチ超えの、しなやかな胸筋を誇るアスリート体型。たしかに叔母の言うとおりだったのかも、と、今になって、やっと心のしこりが消えた。それに、もしかすると、「離れ離れに過ごしたあの一晩」の思いが、私たちを恋人同士のような親子にしてくれたのかも……なんてね。そんな余裕が生まれたのも、彼が惚れ惚れするような大人の男になってからのことだ。