想定外の「いただき相続人」
手を組んだ両者の持ち分は合わせて3分の2となる。Dさんはたとえ寄与(親への貢献)が認められたとしても、2分の1を超えることにはならない。持ち分は多いほうが強い。せめて母親が生きていてくれたならよかったのだが、無い物ねだりである。かりに父親に借金があったとしたなら、2人は絶対に現われることなく知らん顔を決め込んで、Dさん1人が黙々と返済していっただろう。父親は弟の交通事故の賠償もしたが、その詳細はわからず弟の子供の相続分が減るということもなかった。
結局、Dさんは精魂込めた料理旅館を手放すことにした。磨いた腕前は誰にも取られない。料理旅館は無理でも、割烹店を開くことはできる。鳶(とんび)に油揚げをさらわれた心境であったが、法律がそうなっている以上はしかたがないと諦めることにした。
このように、他の相続人がひょっこり現われて、おいしいところだけを横取りしていくこともある。「いただき相続人」や「笑う相続人」と呼ばれるそうだが、血統主義で相続権が決まり、寄与貢献分はなかなか認められないか、たとえ認められても少額である。そんな現行法制度と裁判の現実では、Dさんとしてもどうしようもない。「介護は少なめに、相続は多めに」どころか「介護はゼロ、相続はいいとこ取りで」ということさえ、可能なのだ。
※本稿は、『介護と相続、これでもめる! 不公平・逃げ得を防ぐには』(光文社)の一部を再編集したものです。
『介護と相続、これでもめる! 不公平・逃げ得を防ぐには』(著:姉小路祐/光文社)
著者の実体験をベースに、介護を経験した人たちのナマの声を拾って見えてきた日本の社会構造的な欠陥。
超・高齢社会が進む我が国で、「転ばぬ先の杖」として大事な心構えとは。
核心をつく提言。