思っていることと分かっていることは違う
この作品は、ジョージア出身の作家ニノ・ハラティシュヴィリさんが書いた戯曲で、大川珠季さんの翻訳です。一文ずつが訴えであり、祈りであり。ワンセンテンスに膨大な意味が隠されていて、それを噛み砕いてお芝居をしていますね。
物語は、アテネの王のところに嫁いだフェードラの不満をぶちまけるモノローグから始まります。抑圧された女性が鬱々と生きてきて、もう人生も終わりが見える頃、「私の人生って何だったんだろう」と気付く。女ざかりを過ぎて喪失感に囚われていたフェードラの前に、長男の許嫁ペルセアが現れて、フェードラは突然彼女のことを愛してしまう。女性同士の愛がつづられながらも、女性の権利宣言のような物語だとも思いました。
そして、現代の社会にもある普遍的な息苦しさへのメッセージも込められています。人は自由のない中で過ごすと、思考が停止してしまい相手や環境を受け入れざるを得なくなる。誰が決めたかもわからない社会規範に、みんなが従ってしまう。ニノさんはしっかりと作品の中にそのメッセージを散りばめています。
舞台では最後に、生贄に群衆がたかる場面があります。生贄から心臓が落ち、群衆はそれを見て一瞬静まる。でもまた襲いかかる。これも今の世の中と一緒。私たちはどこかで生贄という存在を肯定している。生贄のいじめに平気で加担し、加勢すると正気に戻れなくなる。戦争も差別も、弱い対象に向かってしまう構図は同じように感じました。
実はこの心臓は愛した嫁の心臓です。そして体を引きちぎられても心臓は脈打ち続ける。嫁のペルセアは「(私は)不幸ではない」というセリフを繰り返すのですが、最期まで滅多打ちされても、無関心でいる人たちのようにはならない。感情だけで「思っている」ことと、「分かって」何かをすることは違うと。最後まで脈動する心臓が教えてくれるのです。すごい台本だと思いました。